「昭和の野球」の悲劇の当事者は今、
「子どもを守る野球」を教えている (4ページ目)
大野は自分がモデルケースになればいいと考えている。
「今やっている授業を全国に展開するのではなく、プロを引退した選手がそれぞれの故郷に帰って活動する。ひとつの事業形態ができれば、元プロ野球選手のセカンドキャリアにもつながってくるんじゃないかと思っています。地元に帰ってこそ、反響も大きいのだと思います」
また、授業した翌日に少年野球チームに入団する子がいるなど、具体的な手応えもあった。
「今、国は部活動を民間に移管しようとしていますが、その流れのなかで事業化の方向性は見えてくるんじゃないかと思います」
大野は2019年11月からラジオ沖縄で『夢を語れ! 大野倫のフィールド・オブ・ドリームス』という番組のパーソナリティーを務めている。毎回、野球だけでなく、幅広いスポーツ関係者をゲストに呼んで、子どものスポーツ環境問題について、情報を発信している。
大野は、"昭和の野球"の最も過酷な部分、ひとりで何百球も投げぬくという体験をしてきた。そして甲子園という地で、投手生命に終止符を打った。その大野が、30年の歳月を経て「子どもたちを守る野球」を教え、「野球の楽しさを伝える」伝道師になっている。そんな大野に、あらためて恩師である栽弘義監督について聞いた。
「感謝しかないです。栽先生だけではなく、当時の名だたる指導者はスパルタでしたが、『その人についていけば絶対に甲子園に行ける』『絶対に成長できる』という思いがあったからついていけたんです。
ボーイズの指導を10年続けて、今年も教え子4人が甲子園に出場します。一番底辺で"野球の楽しさ"を教えることと、甲子園に行くような"野球の厳しさ"を教えることは、僕は矛盾していないと思います。沖縄の地で、野球をする子をひとりでも増やすことが、栽先生の遺志を継ぐことだと思っています」
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