レジェンド始球式に登場する金村義明。
荒木大輔と戦ったあの夏の真実 (2ページ目)
"人生最大の衝撃"を受けた金村は、そこで大きな決断をする。当時、プロ野球のスカウトから熱い視線を受けていた金村だったが、「ピッチャーは高校まで。そのあとは打者として勝負する」と決めたのだ。
「槙原のストレートを見て、怪物みたいなピッチャーと投げ合いながら『もうピッチャーはやめよう』と思いました。結局、試合では5点も取られて1回戦敗退。OBに『おまえのせいや』と言われて悔しかった」
その悔しさを晴らすため、金村は最後の夏を前にエースとしてのプライドを捨て、「とことん勝利にこだわろう」と意識を変える。ストレートのスピード表示など、どうでもよくなった。
「甲子園に5回出るつもりで報徳学園に入ったのに、なかなか出られず、せっかく出場したセンバツで汚名をかぶってしまった。3年の夏が最後のチャンスなんで、燃えていましたよ。もうプロ野球のスカウトの評価がどうなってもよかった。今でいうカットボールも投げたし、わしづかみにしてチェンジアップみたいなボールも投げた。できることは何でもやりましたね」
人気者に対してジェラシーの塊
報徳学園ほどの強豪になれば、兵庫大会の1、2回戦あたりはエースを温存して控え投手で臨むことが多い。夏の大会は体力勝負になるからだ。金村も、はじめは外野手としての出場を打診されたが、それを断って予選の最初から最後までひとりで投げ切って甲子園出場を決めた。
「もし、別のピッチャーが投げて負けたら、そいつに何をしてしまうかわからんかったから。『1回負けたら終わりなんで、僕が投げます』と言って、7試合を投げました」
「ピッチャーで四番」が珍しくなかった時代だが、金村の実力は飛び抜けていた。夏の甲子園1回戦の盛岡工業(岩手)戦では、投げては5安打完封、打っては4打数2安打1打点。2回戦の横浜戦(神奈川)では3安打しか許さず、自分のバットで2本のホームランを放った。
まるで、野球漫画の主人公のような活躍だった。
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