あのプロ野球「盗塁王」が、給料ゼロで米独立リーグコーチになる事情 (3ページ目)
現場に出て初めて、学校が求めているのは"野球部の強化"ではないことを知った。大野が強化に一生懸命になればなるほど、職員たちの顔が曇った。
「元プロの監督がほしいんだと思って赴任したんですけど......学校側は別に誰でもよかったみたいです。彼らがほしかったのは"野球部を引き受けてくれる教員"であって、決して"元プロ監督"ではなかったんです」
野球部の強化を目指した大野は理事と対立してしまい、ついには監督の職を外されてしまう。新年度が始まってしばらくは一教員として過ごしたが、理事に浴びせられたひと言で大野の気持ちは完全に折れ、夏休みが終わったあと、学校も辞めてしまった。
「『ウチは甲子園なんて行かなくていいんだ。監督ではなくなったが、一教員としてやっていけるんだからいいじゃないか』と。さすがに限界でした」
失意の大野は、オーストラリアへ渡った。そこで現地の高校生に野球を教えることになった。
「向こうでは週2回、選択科目でスポーツの授業があるんです。そこで野球を教えていました」
しかしそれも長くは続かず、3年前に大野は帰国した。
「もともと妻が事業をしていた関係でオーストラリアに行ったのですが、妻が『もう日本に帰りたい』って言うので、戻ることにしました」
幸い、オーストラリアで野球の指導をするかたわら、夫人の事業を手伝い、それなりの成功を収めていた。その事業は他人に譲り、以降は講演活動をしながら自ら設立した社団法人で野球を通じた社会貢献を模索していた。
かつて過ごしたオーストラリアでは、社会的に成功を収めた人間は50歳を超えるとそれまでの職を辞し、自分の好きなことをして余生を過ごすケースがよくある。その「好きなこと」も個人的な趣味というよりは、社会的貢献度の高い活動であることが多い。それを目の当たりにしてきた大野も、ゆったりしたペースで野球に関わっていきたいと思っていた。
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