プロ入りゼロの玉川大に謎の151キロ右腕。
来年ドラフト指名はあるか (3ページ目)
ここにたどり着くまでに、いくつもの試練があった。
野球との出会いは小学1年のとき。憧れていた近所の少年野球チームに入部した。メキメキと頭角を現し、6年になると地元の有望選手が集まる横浜ベイスターズジュニアでプレー。だが中学に進学する際、山田の心は揺れ動く。
「野球をやめようと決めていたんです。なぜなら、中学で本格的に野球を続けるとなると、金具の付いたスパイクを履かなければいけません。尖(とが)った金具が怖かったんです。坊主頭になるのにも抵抗がありましたし......」
樋澤監督が言う野球に対する"気持ちの甘さ"が、このときの話からも見え隠れする。最終的に、横浜ベイスターズジュニアで監督を務めていた平松政次氏からの勧めもあり、巨人や大洋(現・横浜DeNA)などでプレーした関本四十四(しとし)氏が指導する硬式クラブチームの青葉緑東シニアで野球を続けることを決断。入団すると2学年上に松井裕樹(現・楽天)がエースとして君臨していた。
「特に松井さんから指導を受けたことはなかったですが、練習する姿を見ているだけでも参考になった思い出があります」
中学3年になると、全国大会も経験。山田は主に4番打者として活躍していたこともあり、高校進学の際、野手としての才能を見込まれて十数校から誘いを受けた。しかし、山田は野手ではなく投手を希望した。いくつか誘いを受けた中から唯一、投手として高く評価していた野呂雅彦監督の桐光学園に進学。ただ、ここからが苦難の連続だった。山田が当時を振り返る。
「高校時代は何度もケガをして思うように投げられず、練習で手を抜いてしまう心の弱さがありました。1学年進級するごとに有望な選手が入部し、それに対するプレッシャーも感じていました。いつしか野球をすることが苦痛になり、自主練習も怠ってしまった。
野呂監督には『もっと真剣に取り組まないと野球の神様から見放され、いい結果を残せないぞ』と何度も叱られました。そのたびに『監督は何を言っているんだろう』って、そのときはまったく意に介さなかった。だけど今になって、野呂監督のアドバイスを思い返し、自分なりに考えるようになり、それまで苦痛だったトレーニングも意欲的に取り組めるようになりました。やっと、野球そのものが楽しいと思えるようになってきました」
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