甲子園は「夢」から「目標」へ。都立高校野球部が強くなった理由 (2ページ目)
なぜ、都立高は私学と遜色なく戦えるようになってきたのか。いくつかの要因から考えてみたい。
「1995年の夏に東東京のベスト4に進出して、『もうワンチャンスあれば(甲子園に)行けるな』という手応えがありました。そうしたら、1999年の夏に城東高校が甲子園に出て......。『先を越された』という思いもありましたが、以前から知っている有馬(信夫)先生が出たことで『絶対に自分も甲子園に行こう!』と思えました」
こう語るのは、2003年の夏に都立雪谷(ゆきがや)高校を甲子園へと導いた相原健志監督(現在は私学の日体大荏原高校の監督)だ。夏の甲子園への扉をこじ開けた有馬監督は、現在も都立高(総合工科高校)の監督を務めている。そんな有馬監督に「都立勢の躍進の理由」について聞くと、こんな答えが返ってきた。
「指導者が『その気になった』ということでしょう。そもそも、我々の世代は『都立は弱くない』と思っていましたから。自分が高校生の頃は、甲子園に行った国立だけじゃなくて、西東京で2回準優勝した東大和など強いチームがあった。
その土壌がまずあって、本気で甲子園を目指すような都立が増えてきた。『目標はベスト8』なんて言っているチームは、ベスト8にもいけません。予算もない、環境もない、普通の都立である城東が甲子園に行ったことで、『夢』が『目標』に変わったのだと思います」
都立勢として1980年夏の国立以来、また、東東京からは初めて甲子園出場を果たした城東。有馬監督が異動して梨本浩司監督(現・文京高校監督)に交代した2001年夏にも再び甲子園に出場すると、2003年夏には雪谷が甲子園へ。つまり、この5年間は都立勢が3回も甲子園に出場したことになる。
その後は、2009年夏に雪谷が東東京で準優勝、2013年夏に日野が西東京で準優勝と甲子園まであと1勝に迫り、2014年には小山台高校が21世紀枠として春のセンバツに出場した。
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