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【都市対抗野球】ミスター社会人・西郷泰之、最多本塁打記録への挑戦 (2ページ目)

  • 中里浩章●文 text by Nakasato Hiroaki
  • 荒川祐史●写真 photo by Arakawa Yuji

 23年目を迎えた社会人野球生活でさまざまな経験をしてきたからこそ、そう思える自分がいる。西郷はこう続けた。

「まさかここまで長く野球ができるとは、思っていなかったですから」

 野球人生が拓(ひら)けたのは、日本学園高校の3年夏だった。投手兼外野手として活躍するも、西東京大会では4回戦敗退。しかし、同期の選手が実力を買われ、三菱自動車川崎(のちの三菱ふそう川崎)に誘われた。「ひとりでは行きたくない」という同期生に対し、「じゃあ俺も付き添うよ」と西郷も練習会に参加した。ほんのついでに参加した打撃練習で、「社会人で続ける気はないか」と声を掛けられたのだ。

 本人の希望で1年目は投手。だが夏が終わると、野手転向を打診された。もともと首脳陣に認められていた打撃である。2年目から代打で出場するようになり、4年目の秋にレギュラーをつかんだ。

 この時期、西郷は確かな手応えを感じている。あるオープン戦でポンと軽く振ったにも関わらず、打球がとんでもなく遠くへ飛んでいった。身体づくりとともに、打つポイントが体に染み付いてきた成果だった。西郷はここからグングン成長し、95年には日本代表に選出。1996年には松中信彦(現・ソフトバンク)、谷佳知(現・巨人)、井口資仁(現・ロッテ)、福留孝介(現・阪神)、今岡誠(元・ロッテ)ら錚々たるメンバーとともに、アトランタ五輪で銀メダル獲得に貢献した。

 しかし――。いくら華々しい活躍を見せても、ドラフトで指名されることはなかった。

「若い頃って、やっぱり自分を中心に考えますよね。それに根拠はないんですけど、変な自信があったんですよ。日本代表のすごいメンバーの中で練習していても、『俺のほうが打てるな』って(笑)。だから、どうしてプロへ行けないんだろうという想いがずっとあって、そのうち『周りはもう見てくれていない』って、自分の中で線を引いてしまいました」

 そうして何となく野球をやる日々が続いた1999年夏、自らの不注意で打撃マシンのボールを頭に受け、1カ月近い入院生活を余儀なくされた。

 この出来事が、いわゆるターニング・ポイントだった。好きだったはずの野球を、いつしか「もう辞めたい」と考えるようになっていた。しかし、好きなことで頑張れない人間が、他の何に頑張れるんだ。そう気付いたとき、謙虚でひたむきに、心を入れ換えて取り組もうと決めた。

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