4回目の五輪へ。スノーボード・竹内智香選手の決意 (3ページ目)

 ところが、フェリックスコーチは、「そういう思いでは、オリンピックでは勝てない」と、はっきり言ったそうです。

「選手たちはみんな、自分の国に誇りを持って戦っている。自分の生まれた国に劣等感を持って五輪のスタートラインに立っても、勝てるものではない」と。それを聞いた竹内選手は考え方を改め、2012年からは拠点を日本に戻しました。

 すると、環境を変えて臨んだ12年12月21日のW杯では初優勝。ちょうど彼女の29歳の誕生日でした。しかも、1カ月前に負傷した膝の靱帯にまだ痛みがあって試合直前も納得いく滑りができない状態だったそうです。それでも、1本1本を丁寧に滑ろうと思い、さらに一番スピードが出るボードではなく少し遅いボードにして滑ったところ、「優勝してしまった」と振り返っていました。

 フェリックスコーチには常々、「マテリアル(素材や道具)にこだわるのはいいけど、速さを求め過ぎるのではなくて、遅いボードでも技術を揃えてコンスタントに10本滑れる方がいい」と言われ続けていたそうですが、優勝したとき「その言葉が初めてしっくりきた」といいます。

 それまでの彼女は、「強気の滑りで男子のようにパワフルに滑ってダントツで勝ちたい」と思っていたそうです。しかし、1対1で勝った方が次のラウンドに進むパラレルは、ただ速く滑るだけではなく相手のスタイルに合わせてレースをする駆け引きのうまさや、メンタルの強さも必要です。「速く滑りたいというこだわりを捨てた訳ではないけれど、勝つための選択肢を増やした」と語る竹内選手は、勝負にこだわることを身につけたのだと思います。

 実は、竹内選手のお父さんは馬術で五輪を目指し、惜しくも行けなかったといいます。そのため、竹内選手がスノーボードを始めた時から誰よりも熱く応援してくれていて、いつも「五輪へ行け」と励ましてくれる存在でした。竹内選手自身、ソルトレークシティとトリノ五輪のときは、「お父さんの思いに応えたい」という気持ちが強かったそうです。しかし、バンクーバーの前に、お父さんとお母さんが「今度は自分のために戦ってきなさい」と送り出してくれたといいます。

「今回のソチは?」と聞くと、竹内選手は「周りでずっと支え続けてくれた人たちのため。その人たちにメダルを見せて喜んでもらえるのをイメージしたいですね」と、今の思いを話してくれました。

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