【指揮官と箱根駅伝】帝京大・中野孝行監督が『世界一諦めの悪いチーム』として続ける挑戦の原点「箱根は可能性を広げ、責任を果たす場」 (2ページ目)
【最後の2区で記憶に残る恩師の言葉と上田誠仁氏】
最後の箱根駅伝、中野はもちろん2区を言い渡された。
「4年目はすんなり2区を任されました。当然、"俺しかいないだろ"って思っていましたが(笑)」
本番が近づくにつれて、2区を走る重圧は重くのしかかり、直前には2年前と同じような症状にも見舞われたが、なんとか対処して、第62回大会(1986年)を迎えた。
国士舘大の1区は、中野と同級生の中村新吾が担い、区間2位と好スタートを切った。
中野は、トップ中継の東京農業大学から12秒遅れで鶴見中継所を出発した。そして、約5kmで東農大の長田千治をかわし、先頭を走った。
しかし、それも束の間。後方から猛烈な勢いで追い上げてきた駒澤大学の大八木弘明、日本体育大学の鈴木尚人に抜かれてしまう。
さらには、早稲田大学の川越学、大東文化大学の若林寿、日本大学の笠間三四郎、専修大学の森田修一と、他校のエースたちに次々にかわされ、一度は抜いた東農大の長田にも先行を許した。
それでも、中野にもエースとしての意地がある。順位を落としはしたものの、最後まで粘った。
この年、ラジオで解説を務めていたのが、中野が箱根駅伝を目指すきっかけになった上田誠仁氏だった。(上田氏は26歳の若さで山梨学院大の監督に就任したばかりで、翌年に初出場に導く)。
「走っていて、ラジオ解説をしている上田先生の顔が見えたんですよね。弟が翌年度に山梨学院大に進んで上田先生にお世話になることが決まっていたので、『兄貴、だらしなかったぞ』って言われるのが嫌で(笑)、最後は必死に走りました」
本当は上田氏と同じ5区を走りたいという気持ちも持っていたが、花の2区を任されたからには、その役割を全うしようという覚悟を決めていた。
もうひとつ、苦しい場面で中野を奮い立たせたのが、国士舘大に誘ってくれた西山一行監督からの言葉だ。
「最後の"戸塚の壁"を上る時には、恩師の西山先生から『抜かれてばっかりじゃ困るぞ』っていう声をかけられたんです。西山先生はあまり怒らないし、褒めることもない先生だったのですが、初めてそんな言葉をかけられました」
2年前にも苦しめられたラスト3kmからの急坂に挑んでいる時に、耳に飛び込んできた恩師からの叱咤の声に、中野は力を振り絞った。
「厳しい言葉っていうのがエネルギーになりました」
最後は東農大の長田を再び抜き返して、7番目で戸塚中継所に飛び込んだ。
中野は5つ順位を落としたものの、区間8位で走り切った。
「自信を持って臨んだし、日本インカレで点を取れなかったぶん、箱根で挽回したいと思っていたので、情けなかったですね。慎重に入って5kmで先頭に立ちましたが、あとは抜かれるだけ。無様でした。2年生の時の悔しさとはまたちょっと違いました。自分で"エース"という言葉を使うのもためらわれますが、その責任は果たせなかったですね」
2度目の花の2区を走り終えた中野は、悔しさばかりを募らせた。
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