【指揮官と箱根駅伝】帝京大・中野孝行監督を箱根路に誘ったカーラジオの記憶 10人中10番目からスタートした大学時代 (3ページ目)
【花の2区で味わった悔しさと意識の変化】
1年目で箱根を経験し、そこから中野は加速度的に成長を見せる。
箱根駅伝の翌月の2月に行なわれた群馬マラソンでは、冬季トレーニングの一環での出場だったが、箱根2区を走った先輩にも先着した。
「その時に西山先生から『お前は来年の2区だ』って言われました。"本当かよ"と思いながらも、そこから2区を意識するようになりました」
順当に力をつけていった中野は、西山監督が宣言したとおり、2度目の箱根でエース区間の2区を任されることになった。
しかし、実際に12月10日に2区にエントリーされると、想像していた以上の重圧に襲われた。
「本番までの約3週間、プレッシャーを感じていました。走っても汗が出なくなり、貧血のような症状もあったので、近くの診療所に行くと肝機能障害と診断されました。低カロリー・高タンパクの食事を摂って、睡眠を取りなさいということだったので、授業がない時は寝ていたし、夜も8時半には布団に入っていました」
2年生の時の第60回記念大会(1984年)には20校が出場したが、中野は万全な体調で迎えることができなかった。
「スタートしてから背筋がゾクゾクしてきて......。カゼかと思ったぐらいでした」
難所と言われる権太坂は「別になんとも思わなかった」が、終盤に待ち受ける"戸塚の坂"は、下見をしていたのにもかかわらず「こんなにもきついものなのか」と、中野の前に立ちはだかった。
「2区っていうのは、体力だけでなく、知力もないとダメだな。頭も賢くないと......」
そう思わされた。結果は区間16位。順位もひとつ落とした。「自分は強い」と思っていたはずなのに、エース区間を担う重圧を跳ね除けることはできず、不本意な走りになった。
「2区を任されたのに、順位を落としてしまい、めちゃくちゃ悔しかったです。それから、練習により真剣になりましたね」
2度目の箱根路で味わった悔しさは、中野の箱根駅伝への向き合い方を変えた。
後編につづく:『世界一諦めの悪いチーム』として続ける挑戦の原点「箱根は可能性を広げ、責任を果たす場」
●Profile
なかの・たかゆき/1963年8月28日生まれ、北海道出身。白糠高(北海道)―国士舘大―雪印乳業。国士舘大学在学時、箱根駅伝に4年連続で出場。大学卒業後、実業団で競技生活を続け、引退後に実業団チームの指導者となる。2005年11月に帝京大駅伝競走部監督に就任すると、その育成力で高校時代まで実績の少ない選手たちの成長を促し、2008年から次回大会まで20年連続で箱根駅伝出場権獲得中。また過去9回大会のうち8大会でシード権を獲得している。最高順位は、総合4位(2020年)。2021年卒業の星岳(コニカミノルタ)は、オレゴン世界陸上マラソン代表。
著者プロフィール
和田悟志 (わだ・さとし)
1980年生まれ、福島県出身。大学在学中から箱根駅伝のテレビ中継に選手情報というポジションで携わる。その後、出版社勤務を経てフリーランスに。陸上競技やDoスポーツとしてのランニングを中心に取材・執筆をしている。
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