【指揮官と箱根駅伝】帝京大・中野孝行監督を箱根路に誘ったカーラジオの記憶 10人中10番目からスタートした大学時代 (2ページ目)
【直前で得た1年目の出走権】
かつて国士舘大はシード校の常連だったが、中野が入学した(1982年)頃はシード権から遠ざかっていた(当時は出場15校で、9位までにシード権が与えられた)。それでも、箱根予選会を勝ち上がって、なんとか連続出場は続けていた。
1年目、入学早々にトラックでは自己記録を連発したものの、その反動で大腿二頭筋の肉離れを起こした。箱根予選会には出場できなかったが、ケガからの復帰直後に多摩川河川敷で行なった20kmタイムトライアルではチーム2番手で走りきった。
この走りをきっかけに、中野は1年生にして箱根のメンバーに抜擢された。しかし、実際に走れるかどうかには、黄信号が灯っていた。
「最初は4区を下見していたんです。でも、足の甲の腱鞘炎になっちゃって。もうダメだって思いましたよね」
当時は12月10日に1区から10区まで各区間の走者がエントリーされた。それに先立って、部内で1区から順に走者が発表されるのだが、案の定、区間エントリーでは名前が呼ばれず、補員に登録された。
しかし、最後の最後、12月29日になって10区を任されることが決まり、1年目から箱根路を走ることになった。
アンカーの中野がタスキを受けたのは12位。シード権が与えられる9位までは9分以上の大差がついていた。そんな状況でも、中野は区間8位とまずまずの走りをし、ひとつ順位を上げて11位でフィニッシュした。
「その年の国士舘は、区間1ケタ順位が私と4年生の先輩2人だけでしたから、シード権を獲るレベルではありませんでした。予選会では間違いなく6番以内(当時は、記念大会以外は6位までが本戦に進んだ)に入るのですが、本戦でシード権を獲るのはなかなか難しかった。だから、シード権を逃したことに対して、悔しさはまったくなかったです」
中野は1年目の箱根を、このように振り返る。
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