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五輪2大会連続メダルの有森裕子、小出義雄監督との初対面で言われた「あなたの根拠のないやる気にすごく興味がある」 (3ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【速くはないけど、バテない】

 だが、実業団で走れることになったものの、手放しで喜んでいられる状況ではなかった。中学生よりも遅く、実績がない有森は当初、選手として認められていなかった。

「入社して1年目、国体があるので出たいと思い、マネージャーに予選会のエントリーをお願いしたんです。ところが、会場に行くとエントリーされていない。仕方なく、自分で『1』と書いたゼッケンをつくって出場して優勝しましたが、結果は無効になりました。

 その後、マネージャーに連絡したら『エントリーされていなかったのは、もともとのタイムが遅いからじゃない?』と言われ、監督にも『実績のなさが問題だ』と同じようことを言われたんです。これはさすがに腹が立ちましたね」

 寮に戻ると、抑えていた悔しさが爆発し、自分の部屋の壁を思いきり叩いた。会社という組織が評価するのは結局、やる気じゃなく実績なのだと理解した。また、のちに、同期が高卒選手ばかりだったこともあり、小出監督は大学で寮長をしていた有森をマネージャーにしようと考えていたと聞いた。ほかの選手と同じスタートラインに立たせてもらえない理不尽さを噛みしめ、有森は自分のマインドを変えた。

「絶対に結果を出してやるって思いましたね。それまではチームメイトのことを気にかけたりしていましたけど、結果を出すためにも、敵だと思うようにしました。それって人としてどうなのかと思いますし、そんな人間になりたくなかったけど、今の自分が結果を出すためには仕方ないと割りきりました」

 練習はどれだけ時間がかかろうともすべてこなし、合宿での練習消化率も100パーセント。その成果が出て、5000m10000mの自己ベストを更新したが、もともとスピードがあるわけではない。

「長い距離を練習していると、小出監督に『速くはないけど、バテないのでマラソンが向いてるかも』と言われて、マラソンに切り替えたんです。それが自分にうまくハマって都道府県女子駅伝で9区5位になり、また、マラソンの第一人者だった小島(和恵)さん、宮原(美佐子)さんが相次いで引退されました。これからは私の時代だって思いましたね(笑)」

 マラソン自体は、最初からやりたいと思っていたわけではない。

 1984年ロサンゼルス五輪、マラソンには増田明美が出場して途中棄権。その姿には悲壮感が漂っていた。あんなに苦しそうにしながら走るマラソンは自分には難しいと思った。そんな考えを一変させたのが、4年後のソウル五輪だった。

「(金メダルの)ロサ・モタ(ポルトガル)が満面の笑みでゴールした姿を見た時、感動して、マラソンって本当はどういう競技なんだろうって思ったんです。あれだけ走ってきたあとに、喜びと輝きを見せる競技は今まで見たことがない。私もいつかマラソンをやってみたい。人を感動させる場に立ちたいと思いました」

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