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箱根駅伝2025 2年前、直前のケガで最後の箱根を走れなくなった國學院大主将・中西大翔は「なんでこんな時に」と涙を流した (3ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【「痛みを隠して走ることもできたけど......」】

 12月に入り、箱根のメンバー16名が発表された。そこで漏れた選手の多くは落胆する。とりわけ4年生はその衝撃が大きい。自分の実力やチーム内の状況を鑑み、難しいとわかってはいても、実際に名前を呼ばれない現実に直面するのはつらいものだ。

「落選した4年生のショックは非常に大きいですね。だからといって腐ってしまうとチームに迷惑をかけてしまう。箱根の翌日に引退するまでは練習を引っ張っていき、後輩たちに何かを残していく。それを4年生に確認し、最後までやってもらいました」

 箱根を走れない4年生のなかには、中西の双子の兄・唯翔(現・NTTビジネスアソシエ東日本)もいた。

「唯翔は選考レースの上尾ハーフを外した時にかなり落ち込んでいたのですが、すぐに気持ちを切り替えて後輩たちの練習を引っ張ってくれたり、コミュニケーションを取ってくれました。お互いに特に言葉はなかったのですが、言わなくても自分に託されたのは感じましたし、自分がやるしかないと思っていました」

 中西は12月上旬の甲佐10マイルで好走。箱根に向けて一番負荷のかかる練習も余裕を持ってこなし、予定の4区での区間賞も見えてきた。だが、そのポイント練習の翌日に足に異変を感じた。

「この練習の翌日の朝、アキレス腱がすごく痛くて......。その後、治療を続けたのですが、前田さんが自転車についてきてくれてふたりで練習をした時も痛くて途中で止まってしまったんです。注射を打ったけど、痛みが引かなくて、31日の朝に監督室に『走るのは無理です』と言いに行きました」

 この時はさすがに涙がこぼれた。「なんでこんな時に」と思い、ひとり悔しさを噛みしめた。その姿を見ていた後輩の平林清澄(現・4年)たちは「大翔さんのために」という合言葉を胸に秘め、箱根を駆けようと誓った。

 中西は、悔しさはあったが、チームのことを考えると後悔はなかった。

「故障してからは4区ではなく、アンカー(10区)で走るというのが決まっていました。痛みを隠して走ることもできたと思うんですが、アンカーの途中で走れなくなり、棄権になると、翌年のチームに予選会からのスタートという爆弾を残して卒業することになってしまう。そのことを考えると、自分の思いだけで走ることはできませんでした」

 4年生でキャプテンの中西の欠場はチームに大きな衝撃を与えた。だが、翌日の区間発表のミーティングでは、「チームのサポートを全力でする」と全員に伝えた。

「僕は箱根で(三大)駅伝の皆勤賞がかかっていましたし、キャプテンとして、しかも最後の箱根ということで気持ちが入っていました。ピーキングも合っていましたし、自信もあったので、走れないというのは考えられなかった。本当に悔しかったです」

 キャプテンとして、自分の走りでチームに貢献することができなかった。中西はその責任をずっと抱えていた。そこまで責任を背負う必要はないのだが、そういう意味では中西はキャプテンらしいキャプテンだったと言えよう。

◆インタビュー後編>>2年前の主将・中西大翔が語る國学院大「三冠」の可能性「平林はもちろん、部屋っ子にも期待」

■Profile

中西大翔/なかにしたいが

2000年5月27日生まれ、石川県出身。金沢龍谷高校ではインターハイ5000ⅿで決勝進出、世界クロスカントリー選手権(U20)に出場するなど活躍。國学院大学に進学すると。いきなり出雲駅伝初優勝のメンバーとなった(2区3位)。箱根駅伝は1年時に4区で区間3位、2年時に2区15位、3年時に4区4位、主将を務めた4年時は直前の故障で不出場。旭化成所属。

著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。

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