「箱根駅伝は別モノ」神奈川大の新監督・中野剛が最も印象に残っている大会とは (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

 当時の神奈川大には陸上部の寮がなく、学校の近くに分かれて住んでいた。門限もあり、点呼に遅れた者は先輩からこっぴどく怒られた。中野は生活面で問題はなかったが、競技では故障に悩まされた。高校まで中距離メインだったこともあって、5000mのタイムも下から数えたほうが早いくらいだった。

――中距離から長距離に移行するのはかなり苦労されましたか。

「キツかったですね。朝に60分以上のジョグをするんですけど、高校時代、そんなに長い時間走ったことがなかったんです。通常の練習量も増えて、その結果、故障の連続で苦しかったですね。それでも、1年時の2月に神奈川で行なわれた20キロのレースに出場し、チームで1番になれました。故障しながらでしたけど、やっていくうちに体力がついてきたんでしょうね。それから一気に走力が上がっていきました」

――3年時、箱根駅伝第70回大会では1区を任されました。

「大会直前に脛(すね)を痛めて万全ではなかったんですけど、スピードを評価されて1区を任されました。でも、康幸君(渡辺・元早大/住友電工監督)があまりにも飛ばすので、ほとんどテレビに映らなかったです(苦笑)。ちょっとレベルが違いすぎました。僕は区間13位に終わったのですが、チームは徐々に順位を上げてシード権(7位)を獲得できました。当時は、大砲がいなかったんですけど、ブレーキがない安定感が神大のウリになっていました」

 4年生になった中野は主将となり、エース区間の2区を任された。そこで前年に続き、渡辺や高橋健一(元順大・富士通監督)と戦うことになった。

「この時もレースの10日前にアキレス腱を痛めたんです。ジョグもできないので、大後先生に『チームに迷惑をかけるので(メンバーから)外してください』って言いました。そうしたら『もう少し様子を見て、最後にもう1回話をしよう。ただ、俺はおまえでいきたい』って言っていただいたので、最後だし、足がちぎれてもいいかなっていう思いで麻酔を打って出たんです。その代償が大きくて実業団に入って半年ぐらいは走れなかったのですが、シード権を獲りましたし、悔いはなかったですね」

――中野監督のなかで一番印象に残っている箱根は、やはりこの時ですか。

「僕の箱根というより、弟(幹生)が主将になって優勝した時の箱根(第74回)が一番印象に残っています。弟は僕と同じく神奈川大に進学してきて2年時に箱根は走りましたが、体調不良や故障で結果はよくなかったです。うちの親は、私の時から応援しに来てくれたけど、兄弟ともに活躍できなくてつらかったと思うんですよ。でも、ようやく弟が7区区間賞で主将として総合優勝した。親がすごく喜んでいたので、僕も本当にうれしかったですね」

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