東海大黄金世代・館澤亨次「5区は地獄。二度と走りたくない」箱根駅伝デビューは苦い経験に (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【箱根の区間新はまさか】

 館澤が競技者として、監督やチームメイトから信頼を得て、多くの駅伝に出走できたのは、個人種目が1500mで箱根の20キロと大きな差があるなか、それでも文句ひとつ言うことなく、練習に取り組み、結果を出してきたからだ。実際、2、3年時の関東インカレ、日本選手権の1500mで2連覇を達成し、学生ながら中距離界のエースになった。ただ、1500mから20キロへの移行は、相当に苦しく、夏合宿の終わり頃は「ほんとキツいっす」と苦悶の表情を浮かべていた。

「両角監督は箱根1本ではなく、トラックも、箱根もという考えでした。それがチーム全体に浸透していたので、僕はすごくありがたい環境だと思っていました。これが箱根駅伝重視のチームで、1500mか箱根か、どちらかひとつに絞ることを求められたら、1500mは諦めざるをえなかったと思うんです。でも、1500mも箱根も追えるので、どちらも全力で取り組めました。ただ、1500mから20キロへの移行期は、本当に大変でした。8月に入ったら箱根モードにシフトしていくんですが、夏合宿での有酸素系のトレーニングがキツすぎて、ほんと大変でした。逆に、箱根が終わったあと、インドアの大会で1500mに出場したのですが、ぜんぜん体が動かないんですよね。スピードについていけないので落ち込むこともありましたが、トータルでみれば1500mから箱根は、やってよかったと思える挑戦だったと思います」

 箱根で館澤が日本中を沸かせたのは、3年時の優勝よりも4年時の6区だった。キャプテンとして鬼気迫る走りで坂を下り、歯を食いしばりながら激走して襷を繋ぎ、その場に倒れ伏した。全力を出しきっての区間新に、多くのファンが喝采を送った。館澤はどの学年での箱根が印象に残っているのだろうか。

「個人の印象で言うと6区ですが、全体的な意味で考えると3年の箱根ですね。この時の箱根は、1、2年時と比べてまったく違う出来で、いけるなって自信を持って走ることができたんです。それって、4年間でこの時だけだったんですよ。相澤(晃・東洋大)選手が飛び抜けていたけど、僕もしっかりと100%出しきって、しかも総合優勝できた。4年の6区を走った際はケガの影響もあったので、区間新を出せたのはまさかという感じだったんです。この時、チームの目標である総合優勝には届かず、キャプテンとしてチームを優勝させることができなかったので、悔しさしか残っていないです」

 悔しさが大きかったのは、優勝の味を知っていたからでもある。箱根駅伝の特殊性や重みは、優勝してこそより実感できるものだった。

「箱根駅伝はやはり特別ですね。陸上って、日頃は野球やサッカーに比べると注目される機会が限られるけど、箱根駅伝の時は陸上選手がガツンと注目されるので、それは僕ら陸上選手にとってすごくありがたいことでした。しかも優勝すると、世間の皆さんからの注目もより一層大きくなりました。それは大学時代も感じましたが、卒業して、市民ランナーの方々にランニングを教える機会が増えるようになって、より実感しました」

 館澤は1500mを軸に競技をしているが、オフシーズンには市民ランナーやこれからマラソンに挑戦したい人にトレーニング方法を教えたり、一緒に走って楽しさを伝える活動をしている。

「イベントや練習会で、僕の肩書として『日本選手権1500m優勝ランナー』はちょっと弱いというか、みんな、知らないんです(苦笑)。でも、箱根駅伝優勝メンバーで、区間新を持っていますというと、僕の言葉に説得力が増しますし、みんな関心を持って聞いてくれます。4年間、箱根を頑張ってきた、実績を残してきたということでみんな、リスペクトしてくれるし、認めてくれる。がんばって箱根を走ってよかったなと思いましたし、この"箱根王者"という肩書を誇りにしたいと思っています」

2 / 3

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る