東海大黄金世代・館澤亨次「5区は地獄。二度と走りたくない」箱根駅伝デビューは苦い経験に (3ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【黄金世代と呼ばれるだけの結果は......】

 箱根王者は、まさに優勝したからこそ得られる称号だが、館澤が4年間で手にした駅伝のタイトルはわずかに3つだ。2年時の出雲駅伝、3年時の箱根駅伝、4年時の全日本大学駅伝だ。東海大への入学要素のひとつにあった黄金世代と称されるメンバーが揃ったにもかかわらず、なかなか勝てなかった。

「1、2年の時、主要区間を走っていた選手がケガをして3、4年になって走れなかったということがありました。僕はそれを含めて駅伝だと思っています。もし僕ら黄金世代と言われていた選手全員がケガなく走っていたら優勝できたのかというと、それもわからないのが駅伝だと思います。黄金世代と言われたメンバーがいても、毎回の駅伝にベストメンバーで望めたわけではなかったのは間違いないです」

 館澤たちは自分の世代に期待していた。実際、1年の出雲は6区間中3区間、全日本は7区間中4区間を黄金世代が占め、勢いを感じさせた。

「1、2年の時は、先輩たちを押しのけて、自分たちの代だけで駅伝を走ると言っていたこともありました。ハングリー精神が強かったですし、自分たちがチームを牽引したいという気持ちが強くありました。でも、3、4年になっていくと、調子を崩したり、ケガをしたりする選手が増えて......。そうして苦しみながら努力している選手に『ちゃんとやれよ』って言葉がけをするのは違うなって思っていたので、信じて待つしかなかったです。僕が思うに一番悔しい思いをしたのは、關(颯人)でしょう。1、2年の時はずっと目標にしていたライバルであり、エースだったので、最後は戻ってくるのを期待したけどケガで走れなかった。阪口(竜平)も最後の箱根を走れなかった。關と同じく期待された選手だったので、もうひと踏ん張りして走って欲しかったなと思いました」

 だが、急激に成長することでチームに貢献した同世代もいた。

「3、4年になった時、主力だった選手が駅伝で走れないなか、西川(雄一朗・住友電工)や小松(陽平・現役引退)、郡司(陽大・現役引退)らが一気に伸びてきたのは、すごくチームにプラスになりました。彼らが成長してくれたおかげで、強い東海をさらに加速できた。彼らがいなかったら優勝できなかったと思います」

 卒業後、4年が経過し、館澤を含め同期は5年目のシーズンを迎えている。時間が経過して、当時の自分たちの成績を冷静に見ると、館澤は「黄金世代」と言われることに対して複雑な感情が膨らんでいるという。

「みんなに"黄金世代"と言われるのは、僕はすごくうれしかった。高校時代、全国で注目されるほど強い選手じゃなかった僕が注目されるようになったので。でも、年月が経過し、自分たちの世代が、"黄金世代"と呼ばれるほどの結果を残せたのかと言われると、まだまだだったと感じます。あれだけの選手が集まり、注目されたなら3大駅伝3冠を達成し、2年連続3冠に挑戦した駒澤大のようになっていないといけなかった。注目されているわりには、結果が物足りなかったと思います」

著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。

【画像】徳光和夫が愛する「巨人」と「箱根駅伝」を語る・インタビューカット集

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