東海大黄金世代・關颯人がケガの連続でも駅伝を続けられた理由「大きな刺激」になった同期の存在 (3ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

 今年1月のニューイヤー駅伝には、3年ぶりの出走を果たした。7区21位と結果は今ひとつだったが、出走したことで「ニューイヤーはもっとしっかり走らないといけない」と来年度へのモチベーションを得ることができた。

 沿道からの声援も關にとって、大きな励みになった。

「正直、沿道で応援してくれている人は、僕のことなんか忘れているんじゃないかなと思っていました。大学時代にくらべて注目度も低いし、周囲から期待されることもあまりなかったので。でも、久しぶりに駅伝を走った時、応援してくださる方がまだいるんだなというのを感じました。うれしかったですし、頑張って、また自分が走る姿を見てほしいなと気持ちが強くなりました」

 苦しんだ時間が長かったが、卒業してからの今までは關にとって、どういう時間だったのだろうか。

「本当にケガが多くて走れなかったので、あまり中身がなかったです。それでも時間が経過するのが早くて、あっという間でした。年齢的には、一番走れる時期でしたし、そこで勝負できなかったのは本当に悔しいというか、もったいないというか、歯がゆい感じです。でも、まだ終わりじゃない。これからもっと頑張っていきたい。刺激をもらった仲間がいるので」

 刺激をもらったという仲間は、羽生だった。

「天才」と言われたが、大学時代は、1年時、全日本大学駅伝を駆けただけ。それ以降は箱根駅伝を含めて駅伝に絡むことはなく、卒業まで長い沈黙の時間がつづいた。だが、卒業後は、すでに引退した同期もいるなか、羽生は結果を出し、輝き続けている。
 
「僕たちの代(黄金世代)は、卒業後も競技を続けた選手が多かった。実業団に行くと本当の意味で競技に向き合って結果を残していかないといけない、厳しい環境にあるので、そういう意味では少しずつふるいに掛けられてきたのかなぁと思います。そのなかで大学時代、一緒に苦しんでいた羽生がすごく走れるようになったのは、僕にとって大きな刺激になりました。何回か会って食事したりしたんですが、改めて自分も練習を積めば、まだまだやれるので、頑張っていかないといけない。今シーズン、同期はもちろん、大学時代に競った仲間が走っている舞台に戻って、自分も戦っていきたいと思います」

 実業団は結果を残し、今後も戦力に足るという評価がなければ退社を余儀なくされる厳しい世界でもある。5年目のシーズン、ニューイヤー駅伝からのいい流れをうまくつなぐことができるか。

 關にとっては勝負の1年になる。
 
■Profile
關颯人(せきはやと)
1997年4月11日生まれ。佐久長聖高校では3年時に第66回全国高校駅伝の1区で区間賞を獲得。東海大学進学後、1年時からU20世界選手権10000mに出場するなど活躍し、3大駅伝デビューとなった出雲駅伝では3区区間賞を獲得した。2年時には1500mで大学記録を打ち立て、5000m、10000mでも自己ベストを更新するなど、好走を続け、出雲駅伝では6区区間賞を獲得し、10年ぶりの優勝に貢献した。3、4年時にはケガに悩まされ、欠場する大会が増えてしまったが、大学卒業後SGホールディングス陸上競技部に所属し、今年3年ぶりのニューイヤー駅伝を疾走した。

著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。

【画像】徳光和夫が愛する「巨人」と「箱根駅伝」を語る・インタビューカット集

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