東海大黄金世代・關颯人がケガの連続でも駅伝を続けられた理由「大きな刺激」になった同期の存在 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

「実業団2年目、3年目は、ずっとケガをしていました。大学時代にケガした半月板は、100%完治はしないと言われたのですが、痛みが出ることはなかったです。でも、この2年間は、記憶がないぐらいいろんなケガで苦しみました。やっぱり競技がうまく回らないと、生活のリズムもうまく回らないんですよ。走れないとテンションが下がって、他のことをやる気がなくなってしまって......。そういう意味では、僕の人生は走ることを中心に回っているんだなというのを改めて感じました」

 チームメイトが結果を出していくなか、關はケガと復帰を繰り返していた。そんな悪循環に長くハマっていると、鬱に近い状態になった。動きたくなくなり、シャワーを浴びることさえ面倒になって部屋に閉じこもる時間が増えた。それでも關が精神的に踏ん張れたのは、人とのコミュニケーションを遮断しなかったからだ。外出は億劫になっていたが、「人に会っていたい」と思い、人と話をすることで深刻にならずに済んだ。その苦しい「空白の2年間」、陸上をやめようと思ったことはなかったのだろうか。

「たぶん、僕は走ること、そんなに好きじゃないんですよ。でも、自分からやめることは考えなかったです。会社をクビになるんだったら仕方ないですが......。今もそうなんですけど、その時もしっかりと練習できたら絶対に走れると自分を信じることができていた。そう思えているのに、ここでやめたら後悔すると思ったんです」

 振り返れば佐久長聖高時代、そして東海大に入学して2年目までは、走って練習を積むことで土台作りがうまく進み、個人種目や駅伝で結果を出すことができた。練習という裏付けがあって、關は自分の走りに自信を持ち、それをレースにぶつけて結果を出していったのだ。だが、ケガが關の勝利の方程式を奪い、復帰を急ぎ過ぎたため、ケガを繰り返して負のスパイラルに陥った。そこから抜け出すことができれば、まだ走れる。高校時代から世代でトップクラスを走って来たプライドもあった。

 大学の同期の羽生拓矢(トヨタ紡織)ら、社会人になって結果を出している仲間からも刺激を受けた。チームでは結果が出ないなかでも自分がやりたい環境を整えてもらい、スタッフや大学時代の先輩の川端に話を聞いてもらった。
 
「いろんな人に支えられている自分が、簡単にやめるわけにはいかなかった」

 關が長いブランクから復帰を果たしたのが、昨年11月の日体大記録会だった。
 
 10000mに出走し、29分12秒44をマークした。「出来すぎのレース」と關は言ったが、その結果を裏付ける練習がしっかりと積めていたのだ。昨秋、チームは実業団駅伝に向けて強化合宿をしているなか、關は滋賀にある練習場を拠点にしていた。寮からそこまで8キロを走って行き、練習後、また走って帰った。週に1、2回は希望が丘文化公園内の芝生を走って足作りをした。
 
「それがよかったのかなと思います。僕はケガが多いので、練習に耐えられる体を走って作っていくことが必要だと改めて感じました」

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