箱根駅伝メンバー入りを「外してください」東海大黄金世代・關颯人が3年続けて裏方に徹した理由 (3ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

 最上級生になった關は、春のトラックシーズンは教育実習のためにチームを離れた後、アメリカのフラッグスタッフで行なわれた夏合宿に参加した。標高約2000mの高地合宿で充実した時間を過ごし、練習もほぼ完ぺきに消化することができたが日本に戻ると足を痛めた。

「4年目は、ケガをしないように、シーズンを通して走り切るために土台作りを意識していました。アメリカでは練習をこなせていたし、距離もしっかり踏んでいたんですが、回復が追いついてこなかったのか、帰国してしばらくして足が痛くなって、秋の駅伝につながらなかった。高地という環境から体の負担を考えれば、もう少しボリュームを落とすなり、考えて練習をすればよかったと思いました」

 出雲も全日本も走れず、復帰したのは、11月の上尾ハーフだった。ただ、これも勝負レースではなく、練習の一環として出走した。それでも最後の箱根駅伝、ワンチャンスあると思っていたが、箱根に向けての練習中に半月板を痛めてしまった。

「両角監督は僕をメンバーに入れる予定だったようです。でも、メンバーに入っても走ること自体、厳しい状態だった。そういう選手がメンバーに入っているのは、チームの士気にもかかわるので、『自分を外してください』と伝えました」

 大学時代の集大成の場にしたかったが、3年続けて裏方に徹した。チームは、青学大に敗れ、総合2位に終わった。

 黄金世代が集ったチームは、出雲、全日本、箱根駅伝と3つのタイトルを勝ち取った。だが、あれだけの選手がいれば、もっと優勝してもおかしくはなかっただろう。とりわけ、彼らが4年生の時、ひとつのタイトルも獲得できなかったのは、そういうこともあるということでは片づけられない歯痒さがあった。
 
 關は、大学4年間の黄金世代をどう見ていたのだろうか。
 
「正直、もっとやれたんじゃないかなと思います。でも、やれなかったのは、僕自身もケガが多かったのもあるけど、全員の足並みが揃わなかったからでしょう。誰かが走っても誰かが走れないことが多かった。そこで全員が噛み合えばもっと勝てたと思います」

 同学年の選手が故障なく、全員揃うことは極めて難しいが、1、2年時はまだしも3、4年時は、多くの主力が欠けていた。黄金世代が一同に会して箱根を走ったらどうなるのだろうか。多くのファンが夢見た箱根は、夢のままで終わってしまった。

「黄金世代」と言われたことについて、關はどう思っていたのだろうか。
 
「うーん、その名前は僕らがつけたものではないですし、黄金世代と言われたことにプレッシャーを感じることはなかった。ただ、たまたま強い選手が集まっただけで、それが結果に結びつかなかった。そういう意味では、強さを感じられる世代とは言えなかったのかなと思います」

つづく

■Profile
關颯人(せきはやと)
1997年4月11日生まれ。佐久長聖高校では3年時に第66回全国高校駅伝の1区で区間賞を獲得。東海大学進学後、1年時からU20世界選手権10000mに出場するなど活躍し、3大駅伝デビューとなった出雲駅伝では3区区間賞を獲得した。2年時には1500mで大学記録を打ち立て、5000m、10000mでも自己ベストを更新するなど、好走を続け、出雲駅伝では6区区間賞を獲得し、10年ぶりの優勝に貢献した。3、4年時にはケガに悩まされ、欠場する大会が増えてしまったが、大学卒業後SGホールディングス陸上競技部に所属し、今年3年ぶりのニューイヤー駅伝を疾走した。

著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。

【画像】徳光和夫が愛する「巨人」と「箱根駅伝」を語る・インタビューカット集

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