箱根駅伝メンバー入りを「外してください」東海大黄金世代・關颯人が3年続けて裏方に徹した理由 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

 5000mでは13分35秒81、10000mは28分23秒37の自己ベストを更新し、1500mは大学記録の3分42秒08をマークした。

「1年目は、わりと勢いで走って結果が出ていたんですが、2年目は自力をつけるために見えないところで走る距離を稼いでいました。ケガをするのが嫌なので、メインの練習のところで増やすのではなく、先輩の川端(千都・SGホールディングス)さんと朝練の前に2、3キロ走ってから全体練習に参加したり、小さなことの積み重ねがいい方向に転がったんじゃないかなと思います。レースもしっかり合わせて、結果を出せたので波に乗っていた感がありました」

 秋の駅伝シーズンに入っても好調を維持し、出雲駅伝はアンカーとして快走。東海大の10年ぶりの優勝に貢献した。全日本は4区6位だったが、チームは2位になった。箱根駅伝に向けて戦える自信を深め、1年前の借りを返すべく箱根に集中していった。

 だが、ここから關の競技人生が徐々に暗転していく。
 
 全日本の頃から左足の脛骨に疲労骨折のような痛みが出ていた。無理はしたくなかったが、東海大の箱根駅伝選考会となる上尾ハーフに出場した後、完全に折れてしまった。幸い治りが早かったが、箱根駅伝の合宿に参加できず、1区のエントリーに關の名前が入ったが当日変更で三上嵩斗(SGホールディングス)が1区に入った。
 
「この時の箱根はそれまでうまくいっていたシーズンだったので、走りたかったです。でも、まぁケガなので仕方ないのですが......それでも箱根を走れないのはもったいないという気持ちがすごく大きかったです」

 大学3年の春、關はゴールデンゲームス延岡に出走予定だったが、その1週間前の東海大記録会で3000mを走った時、くるぶし付近に痛みが出た。検査をすると左足くるぶし付近の疲労骨折が判明。夏まではあまり走れなかったが、9月の日体大記録会5000mで13分53秒46をマークして復帰すると、その後、出雲と全日本を駆けた。

「出雲はチームとして、そこに合わせる感じではなかったですし、自分の結果(4区2位)もいまひとつで日体大記録会の時よりも走れた感じがなかったです。全日本は、2区4位で順位はよくなかったんですけど、館澤にトップで襷を渡せたので、仕事はできたかなと。9月から走り始めたことを考えれば、自分としては上出来でした」

 全日本が終わってしばらくして、今度は膝痛が出た。夏にベースをしっかりと作れなかったなか、急ピッチで仕上げた負荷が出たようだった。箱根駅伝では当初、1区に区間配置されたが、当日変更で代わった。

「走れなかったのはもう仕方ないと思っていました。悔しさはもちろんありましたけど、自分ができることをやって、あとは仲間に託していました。自分が走らずに優勝っていうのは、100%喜べないというか、複雑な気持ちもありましたけど、復路で各区間を応援で回った時は楽しかったですし、優勝してよかったなと思いました」

 チームは箱根駅伝で初の総合優勝を果たし、平塚でパレ―ドを行なった。關はオープンカーについて誘導する係をしていた。それが終わった後、「次は最後なので箱根を走りたいですね」と何とも言えない表情で語っていたのが印象的だった。

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