「選手寿命を縮めるとしか思えない練習」月間1200キロを走った青学大・吉田祐也は箱根駅伝初出走で区間新をたたき出した【2023年人気記事】 (4ページ目)
【原晋監督を見返したいと一致団結】
4年になり、鈴木塁人が主将になった。
新体制後の4年生ミーティングでも吉田の気持ちは落ち込んだままだった。だが、同期の仲間が「1年間、一緒に頑張ろうぜ」と声をかけてくれたことで気持ちが前向きになった。そうしてスタートをきったが、鈴木塁人ら4年生がなかなか結果を出せず、原監督と衝突することが増えた。
「僕らの代は、いろいろ悩みましたね。監督からは、レースを走る度に怒られました。練習は引っ張っていけるんですけど、結果が出ないので、監督から『4年生がこんな結果で』みたいなことをいつもミーティングで言われたんです。僕ら4年生は、いつか見返してやろうと思っていたので、それが団結する源になっていったんだと思います」
吉田にとっては、高校時代から思い描いてきた大学4年間で1度、箱根駅伝を走るという目標はラストチャンスになった。そのため、のちに「練習の虫」とも言われるようになる誰もが驚くような練習量を自らに課した。
「最後だからぶっ壊れてもいいからとりあえずやろうと考えていました。夏合宿ではフリーの日、朝90分ジョグ、昼に12キロ、午後に90分ジョグをして、月間で1200キロぐらい走っていました。今考えると選手寿命を縮めるとしか思えない練習ですが、そうして地道に距離を踏むのが自分には合っていたんです。チームとしても僕がそれだけ走ることで監督から『吉田と飯田(貴之)があれだけやっているんだから、お前たちもやるんだ』とチームを奮い立たせる感じで言っていたので、そういう面でもよかったのかなと思います」
その努力が報われ、8月の終わりには箱根駅伝の4区を言い渡された。
そして、目標の舞台に立ったが、吉田はほとんど記憶がなかった。
「4区をどういうふうに走ったのか、ほとんど記憶がないんです。応援に来てくれた友人はわかったんですけど、監督車からの監督の声とかもほとんど耳に入らなくて......。手を上げたり、そういう反応は無意識のうちにしていたんだと思います。ほんと、必死でした」
終わってみれば、相澤晃(東洋大―旭化成)が出したタイムを24秒も縮める区間新で、チームをトップに押し上げる走りで優勝に貢献した。1度きりの箱根だったが、その経験はその後の陸上人生に、どんな影響を与えたのだろうか。
「4年の時にラストチャンスだと思って夏合宿に追い込んで練習をしたんですけど、それでも故障せずに大丈夫ということがわかって結果にもつながった。それがあったから今、実業団でも充実したトレーニングができています。僕にとっては、それを知れたことが箱根を走ったうえでの大きな収穫になりました」
箱根駅伝後、吉田は別府大分マラソンを駆けた。箱根のために夏合宿でハードな練習を課して、こなしたことがマラソンの脚作りの土台になった。
「自分がやってきたことが間違っていなかったことを証明することができたのでよかったです」
その自信をもって、吉田はGMOで競技生活を継続していくことになる──。
プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。
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