「世界を目指すというのが恥ずかしく思えてきた」マラソン吉田祐也は大迫傑の練習に衝撃「質と量がケタ違い」

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 西村尚己/アフロスポーツ

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第12回・吉田祐也(青学大―GMO)後編
前編はこちら>>「選手寿命を縮めるとしか思えない練習」月間1200キロを走り、箱根駅伝初出走で区間新

2020年、福岡国際マラソンで優勝した吉田祐也2020年、福岡国際マラソンで優勝した吉田祐也この記事に関連する写真を見る
 青学大4年時、卒業前の2月に大分別府毎日マラソンに出走し、2時間8分30秒で日本人トップ、当時の学生歴代2位の成績を収めた吉田祐也。当初は退寮後、4月の入社に向けて最後のモラトリアムを楽しもうと思っていた。ところが初マラソンで結果を出したことで周辺が大きくざわめき始めた。日本陸連マラソン強化戦略プロジェクトの瀬古利彦リーダーや原晋監督からは「競技を続けたほうがいい」と説得されたが、一般企業から内定を得ており、簡単に競技を続けるとは言えなかった。

「大学は部活で、ある意味、それほど責任感もなく楽しみながらやれたんですけど、実業団はお金をもらって仕事として競技をやっていく立場になるじゃないですか。陸上を仕事としてやっていく覚悟があるのかというのをずっと自分に問い続けていたんです。最終的に陸上を楽しむことは半減するかもしれないけど、競技を続けるというのは若いうちにしかできない。大きな挑戦になるけど覚悟をもって継続することを決めました」

 卒業までわずか1か月程度。その時期に競技継続を決めても門を開けている実業団はほとんどなく、原監督がアドバイザーをしているGMOインターネットグループで競技が続けられることになった。入社後、コロナウィルスが猛威をふるうなか、吉田は淡々と練習をこなした。トレーニングは充実していたが、レースは軒並み中止になり、積み上げてきたものを吐き出すチャンスがなかった。

「トレーニングをしているとレースに出たいなぁと思うことはありましたね。でも、レースはないので我慢するしかない。そのなかで、僕が大事に思っていたのは、理にかなったことをやろうということでした。そのひとつは、運動生理学などの文献や論文を読むことです。当時、チームに東大大学院を修了した近藤(秀一)さんがいたので、お薦めの論文を教えてもらったり、わからない言葉を解説してもらいました。身近にブレーンがいたので、すごく助かりました」

 マラソンは、根性やガッツも大事だが、それはレースのラストにこそ必要になってくる。日々の練習を理解し、走力を高めるには根本的な原理や科学が必要であることをレースが空白の期間に改めて学んだ。

【大迫傑との出会い】

 GMOに入社して8か月後の12月、吉田は福岡国際マラソンに出場した。積極的なレース展開をみせ、2時間7分5秒でマラソン初優勝を果たした。

「福岡国際の前、5000mや1万mで自己ベストを更新できていたんです。それはスピード練習をしっかりやってきたからであり、その後にマラソンの土台となるボリュームタイプの練習をやっていきました。トラックの練習で自己ベストを更新し、マラソンの練習のなかで駅伝を走れた。トレーニングを順序よく、バランスよく組み合わせていけた結果、優勝できたので、自分がやってきたことは間違いじゃなかった。取り組みについては自信を得ることができました」

 吉田にとって、マラソンでの初優勝はうれしいことだった。だが、それ以上に大きな収穫があった。それが大迫傑との出会いだった。

「レースのあと、共通の友人と一緒に大迫さんと食事に行ったんです。大迫さんとの出会いは、僕のなかで新たな世界が広がるキッカケになりました」

 その後、吉田は大迫のトレーニングや合宿に参加した。だが、回数を重ねるごとに、自分の非力さを痛感させられた。

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