「陸上が楽しくなかったし、最後はプレッシャーのほうが強かった」北京五輪4×100リレーを走れなかった齋藤仁志が苦しんだその後の陸上人生 (3ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

 それでも諦めきれず、次のリオデジャネイロ五輪を目指そうとした。気持ちとは裏腹に、アキレス腱の痛みがひどくなった影響もあり、2016年まで続けたものの以前の好調を取り戻すことはできなかった。

「北京五輪から戻った時に親が気を遣ってくれたのは、今振り返っても苦しかったですし、五輪で走っているところを見せてあげたかったです。もし、北京大会で走っていたらそのあとはどうなっていたんだろうとも考えましたが、受け止めるしかないなと......。ただ間違いなく、筑波大へ行ったことが僕の人生を変えてくれた一番大きな出来事であり、他の大学だったら、あの経験はできなかったと思います。谷川聡先生を筆頭に、多くの出会いに感謝しています」

 元々教員志望だったが、世界の舞台を経験することで『教員以外の道もあるのではないか』と思い、それを追求してみた時期もあった。だが、再び教員への思いが蘇り、2015年には筑波大大学院に進んで2017年に修了。現在は埼玉県東野高校教諭になって5年目になる。

「僕が赴任する前には400mのウォルシュ・ジュリアン(富士通)がいた高校なんです。でも、グラウンドはありませんし、陸上部員も高校から始めるような子が多いのが現状です。そんなゼロの状態からいきなりインターハイ選手を出すのは難しいですが、彼らをアスリートとして、人間として成長させることに楽しみを見出して、顧問を務めています。

 強くなることも大切ですが、『成長の過程で何を学び、それを今後の人生にどう活かすか』という話をいつもしています。もちろん、いずれは大学で指導したいという気持ちもゼロではなく、トップレベルの競技者をトップオブトップにしたいという思いもあります。でも、今の生活は充実しているし、生徒の成長に寄り添えることを本当に幸せに感じています」

 こう話す齋藤は自分が経験してきたことすべてが今に活きていると言い、充実した日々を送っている。

「世界の舞台での補欠の経験や、走れた経験、ケガをした経験はすごく活きています。そのすべてを教育現場に落とし込めているので、陸上部の顧問として深い指導ができていると思います。様々な経験をしてきた私にしかできないハイブリッドな指導で、多くの生徒に手を差し伸べていければと思います」

Profile
齋藤仁志(さいとう・ひとし)
1986年10月9日生まれ。栃木県出身。
中学から陸上を始め、筑波大学進学後に選手として開花。大学2年から4年までインカレの200mで三連覇を果たす。2008年北京五輪にてリレーのリザーブとして選出されたものの、出場はなし。その後、世界陸上代表に選出されるなどロンドン五輪での活躍も期待されたがケガに悩まされ、2017年以降は大会に出ていない。現在は埼玉県東野高校にて、陸上部顧問を務め、学生たちに陸上の楽しさを伝えるとともに指導を行なっている。

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