「陸上が楽しくなかったし、最後はプレッシャーのほうが強かった」北京五輪4×100リレーを走れなかった齋藤仁志が苦しんだその後の陸上人生

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

5人目のリレーメンバーが
見ていた景色 齋藤仁志 編(後編)

前編:「日本の短距離の歴史が変わる瞬間を見せて欲しかった」>>

2008年北京五輪で4×100mリレーのリザーブとして選ばれた当時、大学3年生だった齋藤仁志。前編では、リザーブの役割は何なのか、走った4人を純粋に応援する気持ちを持ちながらも、自分に求められる役割を考えていたと語った。インタビュー後編では、2012年ロンドン五輪までの4年間で出場した世界陸上での葛藤などを振り返ってもらった。

現在は高校教諭として生徒たちに自分の経験を伝えている齋藤仁志 photo by Igarashi Kazuhiro現在は高校教諭として生徒たちに自分の経験を伝えている齋藤仁志 photo by Igarashi Kazuhiro◇◇◇

 北京五輪でリザーブだった齋藤仁志が、スタジアムのトラックに立てたのは閉会式だけだった。そこでは、筑波大の先輩の成迫健児(ミズノ)や後輩の安孫子充裕らと、写真を撮るなど楽しむ姿があった。

「楽しかった一方で、閉会式で改めて『走りたかったな』と思いました。こんな観客のなかで走ったら、心の底から震えることができただろうなって。その時が一番悔しさを感じていたと思います。でももう全部終わったあとでしたから、次のロンドン五輪とか、その先を考えるように切り替えました」

 走れなかったが、出場した4人の優しさにも触れて収穫は多くあったと振り返る。

「自分の名前が入ったゼッケンを何枚かもらえるんですが、決勝のレースの前にみんなが『4人しか走れないけど、お前も連れて行きたいからゼッケンを貸してくれ』と言って、全員に1枚ずつ渡しました。僕の北京の唯一の思い出なので、返して欲しかったですが......(笑)。それに、表彰式には末續慎吾(ミズノ)さんが、僕のジャージを着て出てくれました。それは返してもらっていますが、みなさん可愛がって気を遣ってくれて、それは本当にうれしかったです」

 レースは観客席で見て、銅メダル獲得に興奮した。しかし、メダリストになった4人のスケジュールは過密で、すぐに喜びを分かち合う時間はなかった。

何時間か経ってから、選手村に戻ってきた4人が揃って齋藤の部屋にきて、「ありがとう」と言って首にメダルをかけてくれた。

「本当にうれしかったですね。チーム意識も強かったですし、そこで、『次はお前に任せるからな』と言われているように感じて、僕自身もその思いを強くしました」

 北京五輪後の日本インカレで200m20秒60の自己新を出した齋藤は、翌2009年6月の日本選手権で世界陸上A標準突破の20秒42を出して代表になり、次への一歩を順調に踏み出した。しかし、本番は膝を痛めた状態で臨むことになってしまった。

「日本選手権を自己ベストで走った時に、コーナーで膨らみそうになって『内側を攻めなくては』と方向を変えたところ、膝に変な力の加え方をしてしまったんです。もしそこで、続く7月上旬からのユニバーシアードを棄権して、しっかり治療しておけば8月の世界陸上も違った結果だったかもしれないですが、2回目の出場だったことと、陸上の主将に選ばれていたので、出ない選択肢はなかったです」

 ユニバーシアードの200mでは7位ながらも、予選から決勝までの4本と4継リレーを1本走った疲労が残った。その影響もあって世界陸上の200mで予選敗退。4継メンバーは、100mで準決勝まで進んだ塚原、2次予選進出の江里口匡史(早稲田大)、200mで2次予選進出の高平慎士(富士通)と藤光謙司(セーレン)が選ばれ、齋藤の出番はなかった。

「一歩一歩のストライドが伸びず、スピードが出てないのがわかっていたので、リレーを走りたいとは言えませんでした。それでもサブトラックで4人を見送るまでは、『メダルを獲るぞ!』と一緒の気持ちになってスパイクを履いて援護射撃をしなければいけない。あの時はもう、彼らが競技場に行った瞬間に100m予選落ちだった木村慎太郎(早稲田大)とふたりで泣き崩れました」

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