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箱根駅伝の経験が鈴木健吾を変えた マラソン日本記録保持者が大学時代に味わった感覚 (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 日本スポーツプレス協会/アフロスポーツ

【初めての箱根は山の寒さで体が動かず......】

 全日本の予選会は出走できなかったが、箱根駅伝予選会で鈴木は個人で33位(6038秒)、チーム4位という結果を出し、トップ通過に貢献した。この走りで大後栄治監督から高い評価を得た鈴木は箱根駅伝で6区を任され、出走することになる。

「状況的に6区を走る選手がいなかったので、監督から『ちょっとやってみないか』と言われ、僕としてはどこでも走りたい気持ちがあったので『走ります』と返答しました。これまでのレースでも6区のような強烈な下りを走ったことがなかったので、不安はありました」

 鈴木が即答したのは箱根を走りたかったのもあるが、山の5区と6区に憧れていたからだ。子供の頃、「初代・山の神」の今井正人(順大)が5区で見せた走りに魅せられた。箱根駅伝といえば山という印象が強い鈴木にとって大後監督からの打診は憧れの区間を走れる喜びがあった。

「大会当日はやってやろうと思ったんですが、箱根の山の寒さは本当にすごくて(苦笑)。スタートした時、体がぜんぜん動きませんでした」

 1年目は箱根(第91回)の厳しい寒さの洗礼を受け、619位に終わった。初めての箱根駅伝を終えた後、鈴木は箱根で勝つために必要な事があらためて見えてきたという。

1年の時は往路が14位と振るわず、復路もそのままズルズルいってしまい総合17位でした。あらためて往路の重要性をすごく感じましたし、そのなかでも2区は箱根で結果を残すためにはすごく重要だと理解することができました。それから僕の中では『次は2区で』という思いが強くなっていきました」

 2年目の箱根(第92回)は、希望どおりに2区を走れたが、区間14位、チームは総合13位に終わり、シード権には届かなかった。

「初めての2区は抜きもせず、抜かれもせず、ただ走っていたみたいな感じで、前との差が開いてしまって何もできなかった。強い選手と走ってみてタイム差が明確に出たので、このままじゃダメだというのをすごく感じました」

 東洋大の服部勇馬、駒大の工藤有生や順大の塩尻和也ら強い選手と走る中、トップの服部には317秒の差を付けられた。この差をどう埋めていくのか、大きな課題を突き付けられた。

 3年時は、鈴木にとって飛躍のシーズンになった。

 4月の世田谷競技会での5000m135788、関東インカレ10000mでは285013秒の3位、続くホクレン北見大会の10000mで大学記録となる283016PB(パーソナルベスト)を更新した。一気にブレイクしたことに対して、鈴木自身は「何か特別なことをしたわけではない」と語るが、日常のジョグの距離を変えていた。

1年目は何もわからないのでチームの流れでやっていて、2年目はその流れに慣れてきたんです。3年目は、それに自分なりのアレンジを加えました。それがジョグの走る距離です。ポイント練習以外の走る練習では距離や時間などは決まっていないので、長く走る人もいれば、短い人もいるんですが、僕はジョグに関しては人一倍長く走っていました。それが積み重なって走れるようになってきたのかなと思います」

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