箱根駅伝、当日の出走前に監督からまさかの電話で「話が違うぞ」 明治大・鎧坂哲哉はそれでも総合3位を勝ちとった (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 築田純/アフロスポーツ

【箱根駅伝4回出走ですべて好走】

 鎧坂はルーキーとして全日本大学駅伝に出走し、3区9位で駅伝デビューを果たすと、箱根駅伝では1区に起用された。

「走りたい区間は特になくて、1区は西さんに『行くぞ』と言われました。スローペースだったんですが、20キロをこの順位(区間3位)で走れるなら、今後も距離走はそんなにいらないなって、ちょっと自信になりました。2年の時は3区で、想定としては、僕の区間か4区でトップに立つ感じだったんです。でも1区がトップできたので、リラックスして後半に上げるような走りができましたし、楽しかったです」

 1年時、鎧坂は1区3位で、チームは総合8位になり、43年ぶりにシード権を獲得した。2年の時は3区3位で総合10位になり2年連続でシード権を確保した。3年の時は、自ら希望してエース区間の2区を走ることになった。そこで鎧坂は、驚異の11人抜きで2区3位という見事な走りっぷりを見せた。

「最初の10キロ地点では、区間15番ぐらいだったんです。あまりにも遅すぎたので、先輩から『鎧坂がやらかしたと思った』と言われるほどでした。結果的に11人抜いたんですが、1区が15位だったので、たまたま前との差がそれほどなかったので抜けた感じです。あと、村澤(明伸・東海大・現SGホールディングス)がビューンって先に行ったんですが、視界から逃げない程度で走って、最後の坂で勝負できるんじゃないかって思っていたんです。でも、甘かった。村澤は最後の坂もしっかりと走りきったので、全然対応できなかった」

 区間賞の村澤(66分52秒)とは44秒差の区間3位だったが、鎧坂の走りがチームを盛り上げて往路4位となり、復路につなげた。この時、総合5位になり、3年連続でシード権を確保するのだが、鎧坂が入学する前まで、明治は駅伝では長い低迷期にいた。

 明治は、なぜ右肩上がりの曲線を描くことができたのだろうか。

「僕は環境と自主性だと思います。当時、明治のグラウンドではエスビー食品や日清食品の選手が練習していたんです。おもしろそうだなと思って、『こっちについてもいいですか』って西さんや実業団の人に聞いて、一緒にやらせてもらっていました。そこで高いレベルの練習ができたのが大きかったですね。さらに自分はこれができないからこれをやろうとか、それぞれが必要なものを考え、自主的に取り組んだ。明治は自分のやりたい練習ができる実業団みたいな環境だったんです。だから、やる人はすごく伸びて、爆発的な力を蓄えていったんだと思います」

 鎧坂も自分に足りないもの、必要なものを常に考え、実業団の選手と練習することが多かった。そうするなか、世界大学クロカンで優勝したり、日本選手権5000mで3位に入るなど、結果を残し、成長することができた。その姿を後輩に見せることでチームの意識も高まった。地道な個々の努力は、鎧坂が4年時にチーム力として一気に開花する。

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