五輪挑戦3回失敗で引退覚悟→マラソン挑戦 「乗り気じゃなかった」競技で鎧坂哲哉がパリ五輪を目指す理由

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 森田直樹/アフロスポーツ

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第18回・鎧坂哲哉(明治大―旭化成)後編
前編を読む>>箱根駅伝、当日の出走前に監督からまさかの電話で「話が違うぞ」 それでも総合3位を勝ちとった


 
2022年、鎧坂哲哉(旭化成)は別大マラソンで2位に入り、MGCへの出場権を獲得した2022年、鎧坂哲哉(旭化成)は別大マラソンで2位に入り、MGCへの出場権を獲得したこの記事に関連する写真を見る 明治大学在学中、鎧坂哲哉は箱根駅伝で4年連続シード権を獲得し、最終学年では総合3位に導くなどチームの躍進に貢献した。卒業後、競技者としてさらに飛躍する場として選択したのが、旭化成だった。

「実業団を選ぶ際に重視したのは、大学4年間でよい結果を残せてきた環境を変えたくないということでした。旭化成は環境を変える必要がなかったですし、当時コーチだった山本(佑樹・現明治大監督)さんが熱心に勧誘してくださって、しかも世界大会の経験がある選手が多かった。そういうノウハウや知識も自分のものにしていきたいと思ったので、旭化成に決めました」

 旭化成の本拠地は宮崎だが、実は東京にも練習拠点があり、その練習場が明大のグラウンドだった。4年間通って勝手知ったる場所で走りに専念できる利点は大きく、またそこには鎧坂のことをよく知る明治大学の西弘美監督(現スカウティングマネージャー)がおり、困った時、行き詰った時に相談できるという環境は魅力的だったのだ。

 競技は旭化成に入社してからも「引退するまでトラック」と決め、5000mや10000mで力を発揮した。2015年の日本選手権10000mで優勝し、同年8月の北京世界選手権10000mに出走、28分25秒77で18位だった。

 だが、五輪には縁がなかった。

 ロンドン五輪(2012年)もリオデジャネイロ五輪(2016年)も参加標準記録を突破していたが代表に選ばれず、3度目の正直にかけた東京五輪(2021年)も予選会で敗れ、出場には届かなかった。

「東京五輪はひとつの区切りと考えていました。競技を続けていくなかで故障が増えて、それでも後悔しないようにトレーニングを続けてきたんですが、これ以上トラックで勝負していくには体がもたないなって思ったので、東京五輪を目指してダメなら引退かなという覚悟でやっていました。その予選会で負けてしまったので、今後どうすべきか少し考える時間をもらったんです」

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プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。

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