「東京五輪に出ていたらメダルもいけたんちゃうかな。涙が出てきた」マラソン松田瑞生は失意の底からどう立ち直ったのか (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 北川外志廣/アフロ

 東京五輪にかけていただけにその喪失感は想像以上に大きく、なかなか陸上に向かう気持ちになれなかった。そんな時、松田を支えてくれたのは家族だった。父からは「厚底シューズを履いて、もう1回挑戦してほしい」と励まされた。母と姉は、「みーちゃんは、よう頑張った。み-ちゃんが終わるん言うたら、それはそれでええやん」と言ってくれた。松田の性格を知り尽くした家族だからこそ言えた独特のエールだった。

 松田を支えたのは、家族だけではなかった。所属するダイハツの山中美和子監督からは「1万mで東京を目指してみよう」と言われ、競技に向けて重い腰を上げることができた。ファンからの声もやめるところまで傾きかけていた気持ちを現役続行へと揺り動かしてくれた。

「SNSなどで『頑張ってほしい』、『やめないでほしい』という声を本当にたくさんいただいて......。この時、私っていろんな人に影響を与えているというか、すごく応援されている選手なんだなっていうのがわかったんです。みんなにこれだけ愛されているなか、負けた姿で終わりたくない。勝った姿をもう1回見せてからやめたい。そう思えたことが、スタートするきっかけになりました」

 再び、立ち上がった松田が目指したのは、2021年の名古屋ウィメンズだった。自分がマラソン代表の座を失ったレースで再起の姿を見せる。走ることの意義とモチベーションを大事にする松田らしい選択だった。レースの3カ月前は月1300キロ、2カ月前は月1400キロを走るなど過去最長の距離を記録し、自分を追い込んだ。そして、レース当日を迎えた。

「この時、調子は最高潮でした。ここまで仕上げることが今後できるかどうかわからないぐらい完璧に仕上がっていました。でも、レース当日は悪天候で風速10mぐらいの向かい風が吹いていて......調子がいいのにコンディションにはまったく恵まれなかったですね」

 22キロから独走して優勝を果たしたが、2時間21分51秒で自己ベスト更新に4秒及ばなかった。ただ、悪条件のなかでも力感溢れる自分らしい走りが戻ってきたことに手応えを感じた。

 それから5カ月後、東京五輪のマラソンは、自宅のテレビで見ていた。

「レースは、見ないつもりでいたんです。でも、寝られなかったですし、やっぱり気になったので、起きてテレビを見ていました。スタート地点の映像が流れたら、もうダメでしたね。本来ならそこに自分がいたかもしれないと思うと悔しくて、涙が出てきました。泣きながら見ていると、母が何も言わずに台所に行ったんです。多分、母もつらかったんだと思いますね」

 松田が、レース会場である札幌から自宅に戻ってきたのは、この日の3日前だった。マラソン女子代表の補欠メンバーだったので、ギリギリまで現地で調整していたのだ。

「最後まで走る気持ちでいましたし、ほぼ完璧に仕上げることができました。最終的に3日前にリリースされたんですが、やっぱり補欠は気持ち的にしんどいです。次回もまた五輪の補欠になったら辞退しようと思いますが、それくらい本当につらかったです」

 悔しさを抱えながらもレースはしっかり見届けた。松田は、このレース展開であれば、自分が出ていたら勝てたかもしれないと思った。

「スローペースから後半に上げていく展開になったじゃないですか。五輪までこの展開の練習をこなしてきて、完璧にできていたんです。このレースならと思いましたし、出ていたらメダルもいけたんちゃうかなって思いましたね。でも、メダルを獲っていたら、たぶんそこで引退していました。そうなっていたら今の旦那さんとは出会えなかったので、そういう意味では東京五輪を走れなかったですけど、自分の人生には大きな転機になったと思います」

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