駒澤大の「谷間の世代」其田健也が明かす箱根駅伝。3年時は「先輩になんともして優勝して卒業してもらいたかった」 (3ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 長田洋平/アフロスポーツ

 大学4年になり、其田は主将になった。最終学年で臨んだ箱根駅伝は、初めて往路区間の1区を任された。

「キャプテンを任されて、監督からの信頼もあったので1区のスターターは素直にうれしかったですね。大八木監督からはレースを作る区間ということで、『任せた』と言われたのですが、プレッシャーがすごくて、かなり緊張していました。スタートの雰囲気は独特でしたし、駅伝の流れを決める区間なので、これまでの区間とは全然プレッシャーのレベルが違いました」

 大八木監督からは青学大の久保田和真(元九電工)をマークしろと言われた。

「久保田選手は、力がある選手。ちらちら見ながら走っていたんですが、ハイペースになってかなりきつかったです。最後まで喰らいついていきたかったんですが、10キロ過ぎから本当にきつくなって、まとめるだけの走りになってしまったので、チームにすごく申し訳ないと思っていました」

 13位で襷を渡したが、トップの青学大とのタイム差は、1分50秒。駒澤大は、それでも盛り返し、総合3位でレースを終えた。

 箱根駅伝を走ることは、その後の其田の陸上人生にどのような影響を与えたのだろうか。

「もともと長い距離を走るのが好きじゃなくて、だから5000mを中心にトラックを走っていたのですが、箱根を走るためにロードにシフトしました。20キロのロードを走るのはきついですけど、我慢すれば記録が伸びるんです。単純ですけど、そこの面白さ、楽しさときつさを覚えたので、そこでのベースと経験が今、マラソンを走るうえで活きているのかなと思います」 

 マラソンのベースを築けたと語る其田だが、それ以上に大きな財産になったのは、大八木監督との4年間だった。

「大八木監督の競技に対する熱心さと厳しい指導のおかげで、競技に監督と同じ熱量で取り組めるようになりました。競技については、『スタミナが重要だから走り込め』とよく言われましたが、周囲に対する感謝の気持ちを忘れないようにと常日頃からおっしゃっていました。走らせてもらうことへの感謝であったり、周囲の支えがあることを忘れてはいけないと言われていたので、それは今でも大切にしています」

後編に続く>>マラソンでは世界との差を痛感「35キロ過ぎから7キロの世界は別次元」

【筆者プロフィール】佐藤 俊(さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。著書に「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など多数。

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