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福島千里が明かすメディアの声に涙したわけ。「自分の成長と周りの期待が一致していなかった」 (2ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • 能登 直●撮影 photo by Noto Sunao(a presto)

「記録から言えば10年の織田記念の11秒21や、11年の布勢スプリントの追い風3.4mで11秒16を出したレースですけど、よかったなと思っているのは、15年の世界選手権の予選で11秒23を出して準決勝に進んだレースです。自分の世界を見るきっかけとなった北京五輪と同じ会場で、自分の7年間の成長を実感できるタイムと戦い方。完成度の高いレースができたと思います」

 12年のロンドン五輪後も女子短距離界を牽引する存在としてレースに出場。そんな時も苦しさは感じなかったと話す。

「ロンドン五輪後は、特に14年あたりからは練習の質と量もすごく上げているので、その部分ではだいぶストイックにやっていました。その成果が15年のアジア選手権での優勝や、ヨーロッパ遠征の結果(11秒25)、世界選手権の結果(準決勝進出)だったと思っています」

 その成果は16年の200m22秒88の日本記録にもつながった。だが、これまでにない手応えを持って臨んだ16年リオデジャネイロ五輪は、直前のアメリカ合宿で太ももを痛めて100mは欠場。200mのみに出場という悔しい結果に終わった。

「リオ五輪は、そのために10何年もやってきたので、残念だったとしか言えません。あの時は100mでベストは出ると思っていたし。決勝進出に必要な10秒台は見えなかったけど、11秒1台は確実だと思ったし、追い風が2m吹けば0台というところだったと思います。ベストを出すための身体づくりの答えが22秒88だったといえばそうだけど、それだけの準備はできていたのだと思います」

 集大成と考えてやってきたリオデジャネイロ五輪が終わったあと、福島はモチベーションを維持するために新しいことに挑戦したいと考え、「環境を変えることが自分の刺激になる」と、高校卒業から所属していた北海道ハイテクACを辞めることを決意した。

「16年までの結果も踏まえてですが、『やれることは全部やった』というのがありました。だから環境を変えるのは目的ではなく、手段だと考えました。それで1年間置いてからセイコーに入り、山縣亮太選手の活躍を見ながら身体づくりからやってみようと思って。リオでも北京でもそうでしたが、世界と比べると私は華奢なほうだったから。ただ筋肉をつければいいというわけでもないけど、AとBを知っていてAを選ぶのと、Aしか知らないでAを選ぶのでは価値がまったく違うので、陸上を続けるなら挑戦すべきだと思いました。陸上界では移籍はいろいろ言われるから、『だからダメなんだ』と言われないようにしなければいけないという、覚悟もありました」

 セイコー所属になった18年には織田記念を11秒42で制し、静岡国際の200mも23秒35で優勝。日本選手権は100m2位、200m1位でアジア大会代表になったが、その本番はアキレス腱の痛みがひどくなり、100mを走っただけで200mは棄権。リレーにも出られなかった。

「アキレス腱は17年からずっと痛かったんですが、どうしようもできなかったというのが正直なところ。東京五輪が、最後の最後で1年延びてしまった時は『どうしようか?』と思ったし、本当に痛くて苦しかったけど、会社のサポートがすごく大きかったので恩返しをしたいという気持ちもどこかにあって。『諦めない』『なんとかなる』『何とかしよう』というところはありました。20年は痛くて日本選手権にも出られなかったけど、最後は山崎一彦先生(順大コーチ)にすごくサポートしてもらい、日本選手権も走れるようにしていただいたので。東京五輪に行けなかったけど、最後の選考会の舞台には立てたし、そこまでやって100%よかったと思っています」

 福島は競技を引退する前の21年から、順大の大学院に入学した。

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