伝説のシューズ職人・三村仁司が語る「マラソン五輪メダルの裏側」 (4ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi  杉原照夫●写真 photo by Sugihara Teruo

 そのために三村が試みたのは、アッパー素材に当時では画期的だったナイロンを使うことだった。1cm2に1秒間空気を通す通気テストでも、綿は0に近かったが、ナイロンは16.6ccになった。

 その後、88年ソウル五輪ではポリエステルのラッセル素材を使って、通気量をロス五輪時の10倍にする。92年バルセロナ五輪では織り方の違うダブルラッセルを採用して330ccにし、04年アテネ五輪では400ccと、通気量を限界に近いところまでにした。さらに最近では復元能力が高いダブルラッセルの改良版を使っているという。

 そのアッパー素材の変化に加え、ソール素材の開発などでシューズは軽量化。最軽量は88年ソウル五輪で中山竹通が使用した片足100gのものだが、現在は選手それぞれに合う重量があるとわかり、120~140gにしている。

「マラソンシューズというのはいろいろなシューズの中でも、一番部品が少なくて構造が簡単なんです。だからこそ難しいですね。選手の個性に合わせて、2時間以上も履いていられるものにしなければいけないから」

 軽量性やクッション性に加え、中敷きの問題や接地面の問題もある。さらに大会ごとに路面の状態や形状、気象条件、その時の選手の体調など、さまざまなものが絡み合ってくる。だがらこそ、その時々で微調整をしながら、生き物といえるようなシューズを作らなければいけないのだ。

 三村には思い出に残っているレースが2つあるという。ひとつは92年バルセロナ五輪。

 女子マラソンの有森裕子が、レースの4日前に踵(かかと)が痛くて走れないと言ってきた。最終調整地のイギリスで木の根っこを踏み、まともに走ることができず、ジョギングシューズで走るか、棄権するしかないと言い出したのだ。

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