パラ陸上のレジェンドが語る。
競技用車いす「レーサー」30年の変遷 (4ページ目)
より高速走行が可能になったレーサーだが、永尾さんには苦い思い出があるという。2011年、「高速トラック」として知られるスイスの国際大会に出場した永尾さんは、400mでスピードが出すぎてカーブを曲がり切れず、大クラッシュを経験。
「後でビデオを見たところ、トラックレバーを入れるタイミングを失っていた。速すぎて、レーサーをコントロールできていませんでした。これが理由かは定かではありませんが、明くる年からヘルメット着用が義務付けされました」
この30年間で、練習環境やアスリートを取り巻く環境も変化してきた。永尾さんは現役時代、練習拠点の兵庫県にレーサーでも夜でも、利用できる陸上競技場が新たにできたため、思う存分練習ができたそうだが、かつては練習場所の確保に苦労した。
「4輪のころは、レーサーでトラックを走ると"傷む"と言われて、施設を使いづらい時代があった。だから、メインはロードだったんですよ」
また、北京パラリンピックの頃はほんの一握りだったプロ選手や、企業とアスリート雇用契約を結ぶ選手の数が、近年はぐっと増えた。2020年東京パラリンピック開催決定がきっかけだ。以前、兵庫県の職員をしながらクラブに所属し、競技を続ける永尾さんに、「プロに転身しようと思ったことは?」と尋ねたことがあるのだが、「その選択肢はなかった」と言っていた。理由を聞くと、「地道に仕事と陸上を両立してきたからこそ、"今の永尾嘉章"が作られているから」という回答だったと記憶している。
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