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サッカーから車椅子バスケへ。京谷和幸がつないだ「代表の誇り」 (5ページ目)

  • 文●スポルティーバ text by Sportiva
  • 写真●五十嵐和博 photo by Igarashi Kazuhiro

伊藤 そう奥様に言われた時はどう感じましたか?

京谷 そういう雰囲気が自分自身から出ていたのかなと思って。「なんでそう思ったの?」って聞いたら「そんな雰囲気出てたよ」って。彼女も「誰かに背中を押してもらいたかったんじゃない?」って言っていました。たぶん「辞める、辞める」と言いながら、バスケの話をすごくしていたんだと思います。妻には助けられてる部分ってたくさんありますよね。結婚した時からそうですし。いろんなところで助けてもらってるから。

伊藤 奥様も京谷さんの気持ちを感じていたんですね。

京谷 僕は、家族全員の理解がないとできないタイプなので、年が明けて1月1日に子どもたちに「もう一回パラリンピックを目指していいか」って言ったら「いいよ。頑張って」って言ってくれたから、「じゃあ、やるか」と。ただ、41歳で迎えるロンドンパラ。肘も首も肩ももうケガだらけだったけど、言い訳をしたくなかったんです。トレーニングをちょっとセーブしながらやっていられるほど、日本代表って甘いものじゃない。やるからには、怪我で駄目になるか、やり続けて駄目になるか。やり続けて結果を出して行けるかっていうところでした。20歳とか21歳の選手と同じことをしなきゃいけない。でも、「京谷さんはベテランだからやらなくていいんだ」って思われるのも嫌だったんです。だから、誰よりも一生懸命やる姿を見せなきゃって思っていました。
(つづく)

【プロフィール】
京谷和幸(きょうや かずゆき)・写真右
1971年8月13日生まれ。北海道出身。高校時代にはサッカーのユース代表に選ばれ、高校卒業後の91年にジェフユナイテッド市原・千葉とプロ契約を交わした。しかし、Jリーグ開幕年の93年に交通事故で脊髄を損傷し、車椅子生活へ。その翌年に車椅子バスケと出会い、所属した千葉ホークスでは日本選手権で3連覇を2度達成するなどチームの中心として活躍した。日本代表にも選出されて、2000年のシドニーパラから4大会に出場し、北京パラリンピックでは主将を務めた。2012年のロンドンパラ後、現役引退を発表。現在は、大学のサッカー部で外部コーチとして指導している。

伊藤数子(いとう かずこ)・写真左
新潟県出身。NPO法人STANDの代表理事。2020年に向けて始動した「東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会」では顧問を務めている。2003年、電動車椅子サッカーのインターネット中継を企画、実施。それをきっかけにして障がい者スポーツと深く関わるようになった。現在、障がい者 スポーツ競技大会のインターネット中継はもちろん、障がい者スポーツの楽しみ方や、魅力を伝えるウェブサイト「挑戦者たち」でも編集長として自らの考えや、選手たちの思いを発信している。また、スポーツイベントや体験会を行なうなど、精力的に活動の場を広げ、2012年には「ようこそ、障害者スポーツへ」(廣済堂出版)」を出版した。

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