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サッカーから車椅子バスケへ。京谷和幸がつないだ「代表の誇り」 (3ページ目)

  • 文●スポルティーバ text by Sportiva
  • 写真●五十嵐和博 photo by Igarashi Kazuhiro

伊藤 そうそうたるメンバーですね。

京谷 その頃の日本は、まだワールドユースにも出たことがなくて、A代表もワールドカップに、もちろん出たことがなくて、「俺たちで世界に行こう」っていう話をいつもしていました。まだ18~19歳ぐらいですからね。僕はそういう思いが志半ばで終わってしまって()、車椅子になってから(藤田)俊哉の結婚式に呼ばれたんですけど、周りのみんなは日本代表で、「ちょっと俺、何もねえな」と思ったんです。そのときに、“今やっている車椅子バスケットで日本代表として戦うことができたら、こいつらと一緒じゃないか”と思って、それから日の丸に対する思いが強くなりました。
※91年にジェフユナイテッド市原・千葉とプロ契約を交わしたが、93年に交通事故で脊髄損傷を負い、サッカーの選手生活を終えた。

伊藤 じゃあ、やっぱりサッカーという層の厚いところで学んだ、日本代表や日の丸への思いを、車椅子バスケ界に持ってきてくれたんですね。

京谷 そういう思いで、シドニーパラ(2000年)が終わった後からずっとやってきて。北京パラ(2008年)が終わった時に一回引退を考えました。

伊藤 そうでしたね。

京谷 それこそ北京へ行く前に羽中田昌さん()とスカパー!で対談して、そのときにサッカーの指導者になりたいっていう話をしていたんですけど、「京谷君、できるよ」って言って下さったんです。目の前にお手本がいますからね。羽中田さんは超スーパースターでしたから。そんな羽中田さんに言われて、ちょっと調子に乗ったんでしょうね。
※1964年7月19日生まれ(50歳)。サッカーの名門、韮崎高等学校で活躍し注目を集めていたが、高校卒業後に交通事故で脊髄を損傷。車椅子生活となる。その後、サッカーの指導者を目指しスペインへ。現在は東京23フットボールクラブの監督を務めている。

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