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【平成の名力士列伝:安芸乃島】横綱にも真っ向勝負で挙げた金星は史上最多の16 記録にも記憶にも残る名関脇 (2ページ目)

  • 十枝慶二●取材・文 text by Toeda Keiji

【土俵態度の源泉となったふたりの「親」の厳しさ】

 そんな力士としての姿は、ふたりの親の教えによって培われたものだ。

 入門前は、昔気質の漁師だった父親に厳しくしつけられた。幼い頃、漁に行く父親について船に乗ったらいきなり海に放り込まれ、必死で泳ぐことを覚えたという。小・中学生時代は漁を手伝い、網を引いたりするなかで自然と足腰が鍛えられ、スタミナや精神力が育まれた。大相撲入りの決意を伝えた時は、父親から「途中で逃げて帰ってくるようなら腹を切れ」と言って送り出されたという。

 入門後の師匠である元大関・貴ノ花の藤島親方の指導も厳しいものだった。稽古で取る相撲の番数は、1日100番は当たり前で、200番を超えて3時間ぶっ通しということも珍しくなかった。父の厳しい指導で鍛えられていたおかげで耐えられた安芸乃島だが、時には、「ほんとうに死ぬかと思ったこともある」という。そんな猛稽古で磨かれた強靭な心技体が、横綱を真っ向から持っていく力強い相撲や、勝っても負けても動じない土俵態度の源泉となった。

 大関の実力は十分にあったが、下位力士に取りこぼすことも多く、好成績がなかなか続かない。同部屋の貴乃花、若乃花、貴ノ浪に、大関に先んじられるなか、平成7(1995)年1月場所は小結、3月場所は関脇でいずれも11勝し敢闘賞に輝いた時が最大のチャンスだったが、5月場所は7勝8敗と負け越して逃した。

 しかし、以後もぶれずに己の相撲を貫き、幕内上位で長く現役を務めた。平成11(1999)年7月場所では武蔵丸を破って6年ぶり16個目の金星を挙げ、翌9月場所は千秋楽まで武蔵丸と優勝を争って11勝して敢闘賞と技能賞に輝くなど、随所で存在感を示した。

 平成15(2003)年5月場所限りで引退。金星16個だけでなく、三賞受賞計19回(殊勲賞7回、敢闘賞8回、技能賞4回)も史上最多。間違いなく「最強の関脇」のひとりだ。

 引退後は元大関・前の山の高田川部屋を継承し、自らが受けたのと同じ厳しい指導で小結の竜電、幕内の輝、湘南乃海らを育てている。その一方で、相撲協会理事の要職にあり、現在は審判部長を務める。

 現役時代に話題となった無表情で寡黙な姿はあくまでも勝負師としての顔で、普段は明るく、よくしゃべる。正面審判長として、物言いの際にマイクを握っての場内説明は、理路整然としてわかりやすいと評判だ。

【Profile】安芸乃島勝巳(あきのしま・かつみ)/昭和42(1967)年3月16日生まれ、広島県豊田郡安芸津町(現・東広島市)出身/本名:宮本勝巳/所属:藤島部屋→二子山部屋/しこ名履歴:山中→安芸ノ島→安芸乃島/初土俵:昭和57(1982)年3月場所/引退場所:平成15(2003)年5月場所/最高位:関脇

著者プロフィール

  • 十枝慶二

    十枝慶二 (とえだ・けいじ)

    1966(昭和41)年生まれ、東京都出身。京都大学時代は相撲部に所属し、全国国公立大学対抗相撲大会個人戦で2連覇を果たす 。卒業後はベースボール・マガジン社に勤務し「月刊相撲」「月刊VANVAN相撲界」を編集。両誌の編集長も務め、約7年間勤務後に退社。教育関連企業での7年間の勤務を経て、フリーに。「月刊相撲」で、連載「相撲観戦がもっと楽しくなる 技の世界」、連載「アマ翔る!」(アマチュア相撲訪問記)などを執筆。著書に『だれかに話したくなる相撲のはなし』(海竜社)。

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