【平成の名力士列伝:旭富士】平成初の横綱は天才的な相撲センスも5場所連続"準優勝"で昇進を待たされた
横綱昇進前にも昇進に匹敵する成績を積み重ねていた旭富士 photo by Kyodo News
連載・平成の名力士列伝32:旭富士
平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。
そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、平成初の横綱昇進を果たした旭富士を紹介する。
【創設間もない大島部屋からスピード昇進】
一人横綱の照ノ富士が引退した場所で豊昇龍が横綱昇進を決めたことで、横綱が番付から消える非常事態はギリギリで回避された。1月場所は優勝こそしたものの、9日目の時点ですでに3敗を喫し、敗れた相手はいずれも平幕力士だったことから、一部の識者からは慎重論も上った。しかし、豊昇龍の持ち前の勝負強さ、終盤以降の隙のない厳しい相撲ぶりが、そんな声を押しきった。
横綱昇進の内規には「2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績」とあり、新横綱はこれを満たしているが、平成以降、ある時期までは連覇以外の昇進は認めない風潮にあった。いわゆる"双羽黒騒動"が原因であったことは間違いないだろう。
昭和も末期の昭和61(1986)年5月場所から12勝の優勝次点、14勝の優勝同点とした北尾(双羽黒)が7月場所後、優勝なしで横綱に昇進したが、自らが引き起こしたトラブルによって、ついに一度も賜盃を抱くことなく昭和62(1987)年12月31日、廃業に追い込まれた。
この騒動の煽りを最も受けたのが、旭富士だった。均整の取れた体つきで懐も深く、右四つからの寄り、出し投げなどを得意とし、相撲のセンスは天才的だった。双羽黒が廃業した直後の昭和63(1988)年1月場所、大関2場所目で14勝1敗の優勝。翌3月場所は優勝した横綱・大乃国、優勝同点の北勝海の13勝に次ぐ12勝をマーク。続く5月場所も14勝1敗で賜盃を抱いた横綱・千代の富士に次ぐ12勝。綱取りは時間の問題と思われた−−。
現在の青森県つがる市出身の旭富士は近畿大を中退し、郷里に帰っていたところで大島親方(元大関・旭國)にスカウトされ、昭和56(1981)年1月場所で初土俵を踏んだ。当時の大島部屋は創設間もない弱小部屋で、旭富士が入門したときは兄弟子が全員年下だった。
大学の相撲部に馴染めずにしばし、相撲からは遠ざかっていたが、学生時代からその名を馳せていたほどの実力の持ち主だっただけに、入門時は「1年で関取になる」と周囲に宣言していた。
果たして宣言どおり、史上2位(当時)の所要7場所で新十両に昇進。本人の素質と努力はもちろんだが、当時の大島部屋は通常の朝稽古に加え、夕方4時からも同様の稽古を行なう"二部制"だった環境も、スピード出世のあと押しとなった。
「よその部屋はどこもやってない。ほかの2倍も3倍も稽古しているんだから、強くなると思いましたね」
昭和58(1983)年3月場所で新入幕。前頭5枚目の昭和59(1984)年11月場所で11勝をマークし、初の三賞となる敢闘賞を獲得して以降は、三賞と三役の常連となっていく。関脇時代にすい臓炎を患い、成績不振に陥ったこともあったが、休場することはなく、昭和62(1987)年11月場所で大関に昇進するとコンスタントに2ケタ勝ち星を挙げていった。
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著者プロフィール
荒井太郎 (あらい・たろう)
1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業。相撲ジャーナリストとして専門誌に取材執筆、連載も持つ。テレビ、ラジオ出演、コメント提供多数。『大相撲事件史』『大相撲あるある』『知れば知るほど大相撲』(舞の海氏との共著)、近著に横綱稀勢の里を描いた『愚直』など著書多数。相撲に関する書籍や番組の企画、監修なども手掛ける。早稲田大学エクステンションセンター講師、ヤフー大相撲公式コメンテーター。