偉大な父からの「俺を超えられるものなら超えてみろ」に奮起し早期卒業した市田龍生都 デビュー開催決勝は9車身差で圧勝 (3ページ目)
【「超えてみろ」に奮発】
競輪選手としてさまざまな苦難を乗り越えてきた佳寿浩は、厳しい父だった。
「すごく厳しくて、よくないことをしてしまうと、『それはダメだ』とめちゃくちゃ怒られていました。ただ、どれだけ怒られても、それを言ってくれるのはありがたいと思っていましたね」
幼いころから尊敬していた父の言葉は、市田の心に響いた。とくに自転車競技に関しては、その言葉が自身の糧になっていた。父を尊敬していると語る市田 photo by Takahashi Manabuこの記事に関連する写真を見る「自分が(自転車競技で)負けて帰ったときに『悔しい』と言ったんですけど、それを聞いた父は、『なんで悔しいんだ』と。その理由を話すと『だったら何をするべきなんだ』と一問一答で答えていって、結果的に自分の気持ちを高めてくれました。負けた気持ちのままでは終わらせないという意図を感じました」
競輪に対して常にストイックに取り組んできた父。「本気でやってきた分、自分にも本気で接してくれている」と市田は感じていた。その言葉に後押しされ、前述のように次々と好成績を残し、競輪選手になることを夢見るようになった。
「大学3年生のときに競輪で生きていきたいなと思いました。父に『俺は競輪選手になりたい』と伝えたら、シンプルに『がんばれよ』と。それから『俺らができることは全力でサポートしてやる。お前が選手になるって言うんなら、これから覚悟が必要だし、1選手としてがんばるなら、俺はどこまでも応援してやる』と言ってくれました」
入所時には父と共に静岡県伊豆の養成所まで車で向かった。その車内では「早期卒業ができるもんならやってみろ。俺を超えられるものなら超えてみろ」と父は言い続けていた。その父は競輪学校(現日本競輪選手養成所)を1位で卒業している。「超える」ためには1位での卒業だけでは不十分で、さらにその上の早期卒業しか道はない。市田は父に告げることはなかったが、父を超えるために早期卒業することを目標に掲げていた。
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