【平成の名力士列伝:稀勢の里】「若貴曙」後の大相撲人気をけん引した日本生まれ横綱は「早熟にして晩成」 (2ページ目)
【30歳6カ月でついに横綱に】
翌年の1月場所も盤石の強さで"全勝ターン"(中日を全勝で折り返すこと)すると、9日目は大関・琴奨菊に不覚を取ったもののそのまま突っ走り、14日目に2敗で追う白鵬が敗れたため、長く待ち侘びた初優勝が決まった。
実は悲願達成の瞬間を、稀勢の里自身は見ていない。取組後の支度部屋ではテレビモニターを背にして壁を向いてしまった。付け人が背後から「横綱が負けました」と伝えて、稀勢の里はすべてを知った。振り返ると両眼を真っ赤にし、ひと筋の涙が右頬を伝った。
「敗れたところで喜ぶのもあれなんで、しっかり冷静に受け止めて」とのちにこの時の心情を語った。優勝を争った相手の敗戦を喜ぶことをよしとしない力士としての矜持があった。
大関時代、実に5度も13勝の星を挙げながら、賜盃を手にすることができなかった。言うまでもなく白鵬という大きな壁に阻まれていたからだ。千秋楽はその絶対王者を破って14勝。初賜盃とともに30歳6カ月にして横綱にも推挙された。
19年ぶりとなる"国産横綱"の誕生に、相撲ファンだけでなく日本中に大フィーバーが巻き起こるなか、新横綱として迎えた3月場所も他を寄せつけない強さで初日から12連勝。左おっつけという絶対的な武器を手に入れた遅咲きの新横綱は当時「まだまだこれからだと思っている。あと10年はね」と自信たっぷりに語った。
「あと10年」は冗談や単なる意気込みなどでは決してなかった。関脇時代、ほかの格闘技からヒントを得ようと、80代の合気道師範のもとを訪れたが、いとも簡単に転がされてしまった。武道の世界では相手の力を利用するなど、極意を会得すれば、年齢の坂を下ってもトップに君臨することは可能ではないかと考えた。全盛期は絶対的な型を身につけた30代からやってくると信じていた。
しかし、13日目の日馬富士戦で左大胸筋断裂などの大ケガを負ったことで、そんな"青写真"も描けなくなった。"必殺技"の左おっつけはもう使えない。それでも残り2日は強行出場を果たすと、千秋楽は大関・照ノ富士に本割、決定戦と連勝し、奇跡の逆転優勝を成し遂げたのは記憶に新しい。
しかし、日本中を感動の渦に巻き込んだ代償は、大きかった。翌場所から横綱としては史上ワーストとなる8場所連続休場。平成31(2019)年1月場所、志半ばの32歳で現役引退を決意した稀勢の里は、早熟にして晩成の稀有な横綱であった。
【Profile】稀勢の里 寛(きせのさと・ゆたか)/昭和61(1986)年7月3日生まれ、茨城県牛久市出身/本名:萩原 寛/しこ名履歴:萩原→稀勢の里/所属:田子ノ浦部屋/初土俵:平成14(2002)年3月場所/引退場所:平成31(2019)年1月場所/最高位:横綱
著者プロフィール
荒井太郎 (あらい・たろう)
1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業。相撲ジャーナリストとして専門誌に取材執筆、連載も持つ。テレビ、ラジオ出演、コメント提供多数。『大相撲事件史』『大相撲あるある』『知れば知るほど大相撲』(舞の海氏との共著)、近著に横綱稀勢の里を描いた『愚直』など著書多数。相撲に関する書籍や番組の企画、監修なども手掛ける。早稲田大学エクステンションセンター講師、ヤフー大相撲公式コメンテーター。
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