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【平成の名力士列伝:稀勢の里】「若貴曙」後の大相撲人気をけん引した日本生まれ横綱は「早熟にして晩成」

  • 荒井太郎●取材・文 text by Arai Taro

稀勢の里の相撲人生は、早熟にして晩成だった photo by 共同通信社稀勢の里の相撲人生は、早熟にして晩成だった photo by 共同通信社

 平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

 そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、貴花田に次ぐ若さで新入幕を果たしながら三十路で横綱に辿りついた稀勢の里を紹介する。

連載・平成の名力士列伝02:稀勢の里

【若くして新入幕もその後は上下激しく】

"平成の大横綱"貴乃花が引退後、角界はモンゴル出身初の横綱となった朝青龍をはじめ、同郷の白鵬や日馬富士、さらには欧州出身の琴欧洲、把瑠都ら、外国出身力士が番付上位を席巻するようになった。世間は日本出身の強い力士を渇望するようになる。そんな期待を一身に背負っていたのが、稀勢の里だった。

 貴花田(貴乃花)の17歳8カ月に次ぐ18歳3カ月という史上2番目の若さで新入幕を果たしたが、その後は一進一退を繰り返す。それでも期待は膨らむ一方だった。横綱・朝青龍を立ち合いから一気に圧倒して土俵下まで吹っ飛ばすなど、忘れかけたころに強烈なインパクトを伴った勝ち方で"大物食い"を果たすからだ。しばらくは三役と平幕の往復に終始するが、転機となったのが、前頭筆頭で迎えた平成22(2010)年11月場所の2日目の横綱・白鵬戦だった。

 立ち合いで攻め込まれたが、得意の左四つに組み止めて胸を合わせると、右上手を引きつけながら前に圧力をかけ続けて寄り切り。白鵬の連勝を63で止める歴史的白星を収めたこの場所で10勝を挙げると、翌場所は関脇に復帰。以後もその地位に定着し、平成23(2011)年九州場所で大関取りに挑むことになった。

 場所前の会見では「技術、体力もそうだが、心の力がついてきた」と普段は滅多に弟子を褒めることのない師匠(元横綱・隆の里)も"太鼓判"を押すほどであった。その親方が場所直前に急死。大きな試練に見舞われながら10勝をマークし、場所後、大関に推挙された。新入幕から7年の月日が経っていた。

 大関昇進後はコンスタントに2ケタ勝ち星を挙げ、平成25(2013)年夏(7月)場所は初日から13連勝と抜群の安定感を身につけ、初優勝と綱取りに大きく近づいたかと思われたが、平成26(2014)年1月場所は右足親指靭帯の損傷により、千秋楽は入門以来初の休場で不戦敗を喫して負け越し。この場所を境に勢いは失速し、"低空飛行"が2年ばかり続いた。

 足の親指は立ち合いで踏み込む際、最も力が入るところ。右足から踏み込む稀勢の里にとって、このケガは"致命傷"となった。のちに自身は「自分が(その時点ですでに)横綱になっていたら、あのときに引退していましたよ」と語っている。"2年"という歳月は新たな立ち合いを構築するのに要した時間だった。

 平成28(2016)年3月場所は久々に最後まで優勝を争い、13勝の大勝ちで復活をアピール。立ち合いは仕切り線とほぼ平行に両足を開き、腰が大きく割れた状態で左足から踏み込む形にマイナーチェンジすると、以前よりもスピードは劣るが、低い体勢で踏み込んで下から上へと圧力がかかるため、得意の左おっつけもパワーアップすることに。絶対的な"勝ちパターン"を身につけると、平成28年は年間69勝をマーク。白鵬の10年連続を阻止して年間最多勝に輝いた。特に11月場所は白鵬、鶴竜、日馬富士の横綱陣を"3タテ"して12勝。優勝こそ14勝の鶴竜にさらわれたが、実力はすでに"横綱級"であることを証明して見せた。

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著者プロフィール

  • 荒井太郎

    荒井太郎 (あらい・たろう)

    1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業。相撲ジャーナリストとして専門誌に取材執筆、連載も持つ。テレビ、ラジオ出演、コメント提供多数。『大相撲事件史』『大相撲あるある』『知れば知るほど大相撲』(舞の海氏との共著)、近著に横綱稀勢の里を描いた『愚直』など著書多数。相撲に関する書籍や番組の企画、監修なども手掛ける。早稲田大学エクステンションセンター講師、ヤフー大相撲公式コメンテーター。

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