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來田享子(中京大学教授)が語るこれからのオリンピック像「2年に1回の開催は、大会の意義を考えるいい機会にもなる」 (3ページ目)

  • 西村 章●取材・文 text by Nishimura Akira

【メダル至上主義は周りが作り上げたもの】

――そうやって現実を見据えながら少しずつ前を向いていく契機になればいいのですが、繰り返しになりますが、オリンピックが始まってしまうと結局は「メダルをいくつ獲りました」「感動をありがとう」というところに落とし込まれてしまいます。なぜ、そうなってしまうのでしょうか?

來田:それは無責任に選手のメダルを評価するからでしょう。アスリートたちはメダルを欲しいと思って必死に走り、泳ぎ、戦います。スポーツを競うわけだから、それは当然でしょう。でも、実際にそれを手に入れてもその後の人生が保証されるわけではない、ということは、実はアスリートたち自身が一番よく知っているわけです。

 たとえばタレントになろうが、もう一度大学に行き直そうが、あるいは企業に入ろうが、何かしらの努力をし続けなければそのメダルは生かせない。そのことを彼ら彼女たちは人生をかけて知るんです。つまり、メダルを数えて、それがあたかも絶対的で、人生を決定づけるようなすごいことのように考えているのはいったい誰ですか、ということです。

 じつは、JOCは2023年のアジア大会(中国・杭州)から、メダル目標を立てるのをやめたんですよ。パリオリンピックでも、メダル数の目標は立てていません。この決定は「その方向で進んでいかなきゃダメだよ」と、もっと評価されてもいいと思います。でも、この方針はメディアでほとんど報じられていませんよね。

 日本社会でスポーツが大衆化されていったことは、スポーツを人権のひとつとして捉えるというプラス面を生み出しました。多くの人がスポーツを楽しめる環境を作り、競技で上を目指したり、自分はここにいていいんだと思える機会を得ることができるようになりました。それと同じ質感で、スポーツの文化的な理解を共有して皆が一緒に考えることを、この国はあまりしてきませんでした。「健康」か「勝利」だけをキーワードにスポーツを振興したことの影響も、この背景にはあるように思います。

 スポーツの大衆化とスポーツ文化の理解をセットで進めてこなかった弊害のひとつが、体罰や暴力的な指導、あるいは社会と遊離してメダルだけを追いかけていればいいという思考を作ったのかもしれない、という気がします。

――その功罪に対する評価のなかで、さきほどの話にもあったオリンピック不要論も出てくるのかもしれません。ことに近年は政治的な不安定さを増す世界で、オリンピックやパラリンピックは今後も持続可能でしょうか。

來田:パラリンピックやデフリンピック、スペシャルオリンピックスなどのほうが社会的な意義がわかりやすいので、生き残る可能性は高いでしょうね。これらの大会がオリンピックを追い抜いていく可能性もあると思います。

――オリンピズムやオリンピックムーブメントを体現するものであれば、現在のような形のオリンピックではなくてもいいのではないか、という気もします。

來田:そうですね。私なら、21世紀の社会にオリンピズムやオリンピックムーブメントの理念を普及浸透させる方法は4年に一度大会を開くことですか、という問いを立ててみます。じっさいにIOCの議事録を見ると、そのような議論は行なわれてきたことがわかります。たとえば国旗や国歌をやめてオリンピック旗とオリンピック賛歌にしてもいいのではないか、という議案は何度も出ています。ただ、そのたびに国威発揚をしたい国々が反対するので合意できないのであって、議論はしているんですよ。

 オリンピックで国旗を揚げなかったり、国歌を使わなくなると、かなりドラスティックな変化じゃないですか。そうするだけでも、オリンピック大会の意味は相当変わると思います。現在のセレモニーは必要ですか? 4年に1回の開催間隔は必要ですか?  という問いかけをたくさんして、そういう議論に参加できる素地が日本のスポーツ界にも生まれるとよいと思います。

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