來田享子(中京大学教授)が語るこれからのオリンピック像「2年に1回の開催は、大会の意義を考えるいい機会にもなる」 (2ページ目)

  • 西村 章●取材・文 text by Nishimura Akira

【五輪商業化との向き合い方】

――IOC(国際オリンピック委員会)は商業主義化が指摘されて久しいですが、実際にその傾向があると來田さんはお考えですか。

來田:IOCは集めたお金をIOCの運営費とソリダリティ(社会的連帯)、そして各国や地域のオリンピック委員会支援に使っています。そこは財務記録を見れば、日ごろのオリンピックムーブメントに使用していることが明確にわかると思います。

 ただそれを前提としても、そこまで大きく稼ぐ必要はあるのか、そんな規模でやらなければならないのか、という問いを立てる必要はあると思います。つまり、「オリンピックムーブメントの理念をしっかりと守っているので、そこにお金を投じてください」という姿勢を提示できて初めてIOCが集めるお金に意味が発生するのですが、その文脈が切れてしまっている面があるように思えます。使い方や金額の大きさよりも、むしろそこが一丁目一番地的に大事なことだろう、と私は考えています。

――お金ということで言えば、おそらく皆がすぐに連想するのは巨大な放映権料です。そしてその放映権料と絡む非常にわかりやすい問題が、スポンサー企業などが関連するいわゆるオリンピックビジネス。五輪憲章規則40(※※)との関連でオリンピックに関連する知的財産権はすべてIOCがコントロールしており、五輪のシンボルマークすら権益の対象になっています。これに関しては、「平和の祭典」という謳い文句に首を傾げたくなるほどの窮屈さを感じている人は少なくないと思います。

※※五輪憲章規則40:開催期間を含む前後期間に、選手を含む関係者の広告活動などの規制を定めるルール)

來田:そうですね。規則40はパリオリンピックに向けて改正されましたが、スポンサーとの関係という点ではさほど大きく変わってはいません。ムーブメント、というのであれば、むしろ誰でも自由に使えるようにしたほうが効果は大きいのではないか、と私もしばしば思います。

 ナチスドイツがオリンピックを利用した時、あるいはソ連など旧東側諸国が国威発揚に利用した時、あるいは近年でも企業が五輪マークをつければ物が売れる、と考えていたこと。たとえば東京大会での談合汚職事件なんて、まさにその典型例です。オリンピックに関われば自社に箔がつく、その後も利益が環流してくるといった、こうした理念を矮小化するような、こうした欲望がゼロにならない限り、商業的なシンボルになってしまったあの五輪マークを自由に人が手にすることはできないでしょう。

 そのためには、多くの人が自分の欲望や力を誇示するためにオリンピックを利用するという部分を削ぎ落とさないと、少なくともそれに気づくぐらいのことにならないと難しいでしょうね。でも、私たちはその日が来ることを信じて、目指すしかないんですよ。

――それはIOCそのものの問題でもあるわけですね。

來田:そうです。ピエール・ド・クーベルタンはあの五輪のシンボルマークを作った時もその後も、十分に理解をされていないと考えていて、だからこそ彼は「100年後に生まれ変わったら、イチから全部やり直す」と言ったのだと思います。私はよく「オリンピズムとは虹のようなものだ」とたとえるのですが、虹って捕まえようとしても捕まえられないけれども、出たときには「うわあ、きれいだな」と思うし、「あれを手に取りたいな」と思うじゃないですか。

 つまり、理想なんです。手の届かない理想かもしれないけれども、その理想を求めるということは単に夢想するのとは違って、それを摑みにいこうと努力する決意や覚悟を持つ、ということです。そう考えなければオリンピズムというものは理解しがたいし、オリンピックムーブメントも維持し難いものなんですね。

 でも、そこまで言ってしまうと身も蓋もないので、「人はいろんな失敗をしながら歩いていきますよね。4年に1回、その失敗を陽の光の下に晒してくれる場所ですね」というくらいの見方をしながら、少しずつ失敗を改善していこうというくらいの姿勢が、現実としてはいいと思います。

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