中部電力・松村千秋が涙。目前の五輪出場を逃した瞬間の悲痛な思い (3ページ目)

  • 竹田聡一郎●取材・構成 text by Takeda Soichiro
  • 藤巻 剛●撮影 photo by Fujimaki Goh

――ジュニア時代はなかなか勝てなかったようですが、その頃、他のスポーツをやったりもしていたのでしょうか。

「小さい頃からバスケットボールが好きだったので、中学校、高校はバスケ部に所属していました。ちょうどその頃に背が伸びて、他のメンバーもそれほど背が高くなかったので、ほとんどのポジションを経験しました。でも、センターは相手選手とぶつかることが多いので、痛くて、嫌だったかも。最終的には、フォワードをやっていました」

――当時は、カーリングと並行してやっていたのですか。

「基本的には、バスケ9割という生活をしていました。カーリングは、母が(在籍チームの)コーチだったので、週に何日かシートを予約していて、部活の練習で疲れて帰ってきても、『行くよ!』と言われて......。正直(カーリングの練習に)行くのが嫌だった日もありました(苦笑)」

――学生時代は、なかなか勝てなかったカーリングよりも、むしろバスケットボールに夢中。それでも、2011年に中部電力に入社して、カーリング部に所属することになります。その経緯を教えてもらえますか。

「中部電力カーリング部ができたのが2009年で、その翌シーズンの日本選手権(2011年2月)では優勝しているんですよね。そうしたなか、チームではフィフスの選手を探していて、ちょうどそのタイミングで、私が高校卒業を迎えたんです。(チームには)えみずさんも所属していたし、(当時)コーチの長岡はと美さんも小さい頃から家族ぐるみで付き合いがあったし、同級生で地元でカーリングをしている人も少なかったので、ジュニア時代に結果を残していなくても、(フィフスとして自分を)スムーズに選んでもらえたのかな、という感じです」

3 / 6

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る