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「ガガちゃん」こと臥牙丸にとって、
日本は「夢の国」だった (2ページ目)

  • 武田葉月●取材・構成 text&photo by Takeda Hazuki

 だけど、師匠(木瀬親方=元前頭・肥後ノ海)から「もう1回、がんばってみろ!」と檄を飛ばされて、頭を冷やした。幕下に落ちたと言っても、僕の番付は東の筆頭。この地位は勝ち越し(4勝)さえすれば、優先順位1番で十両に上がれる。もし、もっと番付が落ちていたら、あきらめモードに入っていたかもしれないけど、「これなら、がんばれるかも......」と心を奮い立たせた。

 そうして、九州場所では5勝2敗と勝ち越して、再十両の座をつかんだけど、若い力士たちの台頭がめざましい中、今32歳の僕がどこまでやれるのか、これからちょっと不安なところもあるね。

 僕が生まれたのは、ジョージアの首都・トビリシ市。日本の人に「ジョージア」って言っても、どこにあるのかわからない人も多いと思うけれど、1年を通して気候も温暖なんだ。ロシアの隣の国だから、「冬はすごく寒いんじゃないの?」って聞かれたりするけど、トビリシの場合、冬でも最低気温がマイナス1度くらいだから、冬のグルジアは僕の中ではオススメだね。

 質のいいぶどうが獲れるジョージアでは、ワインの製造が盛んで、トビリシの実家でもワインの醸造をしていた。僕は6歳からサンボと柔道の道場に通っていて、16歳の時には、サンボと柔道でジョージアのジュニアチャンピオンになった。

 相撲の大会に出るようになったのは、18歳の時。あまり知られていないけれど、世界相撲選手権やヨーロッパ相撲選手権で、ジョージアの選手は結構活躍している。垣添関(元小結=現雷親方)が大学時代、世界選手権で優勝とかしていた頃、彼を破って優勝したレヴァン・エバノゼ選手は最強だったし、団体トーナメントでもジョージアはだいたい3位以内につけているんだよ。

 そんな土壌もあって、2005年7月、両国国技館で行なわれた世界ジュニア相撲選手権に、僕はジョージア代表として出場し、無差別級で3位に。栃ノ心(現大関)と一緒のチームで出た団体戦では、2位という成績を収めることができた。

 それより少し前(2001年)、ジョージアからは黒海関(※欧州出身の最初の関取。最高位は小結)が大相撲に入門していた。2年後には関取になって、ジョージア国内でも大きな話題になっていたんだ。

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