2019.05.04

太田雄貴、北京五輪銀メダル
までの苦闘の道。先輩への想いを胸に

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Tohshimi
  • photo by AFP/AFLO

平成スポーツ名場面PLAYBACK~マイ・ベストシーン 
【2008年8月 北京オリンピック 太田雄貴】

 歓喜、驚愕、落胆、失意、怒号、狂乱、感動……。いいことも悪いことも、さまざまな出来事があった平成のスポーツシーン。現場で取材をしたライター、ジャーナリストが、いまも強烈に印象に残っている名場面を振り返る――。

2008年北京五輪、冷静な判断で銀メダルを獲得した太田雄貴 2008年北京五輪は、それまで五輪でのメダルを獲っていなかった日本フェンシング界にとって歴史的な大会になった。太田雄貴が男子フルーレ個人で 銀メダルという結果を残したのだ。

 02年に高校2年で全日本選手権を制して史上最年少の王者になった太田は、18歳で04年アテネ五輪に出場。ベスト16に進出して9位という結果を残した。翌05年には、世界ジュニア選手権で3位になり、06年アジア大会では準決勝で同年世界選手権2位の張亮亮(中国)を破る大金星を挙げた。さらに2006-07シーズンは、25位だった世界ランキングを7位まで上げる急成長を見せていた。

 男子フルーレ個人は、ランキング8位以内に選手が入っている国は2名まで北京五輪に出場できた。団体が行なわれない分(※)、1つでも多く枠を獲得する、そして出場できない仲間たちの想いを背負って戦う。その決意が、太田の胸中に生まれていた。
 ※五輪でのフェンシングの団体は、男女合わせて6種目のうち4種目が実施される決まりで、北京五輪は男子フルーレと女子エペの団体は実施されない大会だった

 太田はこの五輪シーズン、4月上旬のポイントレース終了時に7位になって2枠を確保。ただ、5月からは不調でランキングを10位まで落としてしまった。この年の3月、太田は大学卒業後に就職をしなかったため「五輪後はどうしようか」という心の迷いとともに、海外遠征が続いたことで基礎体力が落ちていたのだ。

 そこで太田は、剣を一度も握らないで、フィジカルトレーニングのみに集中する期間を3週間つくった。五輪直前に剣を握らないことは不安もあったが、それを決断したことで7月になって体力が戻り、「これで五輪も戦える」という手応えをつかんだ。ただ、メダルが見えたわけではなかった。

「大会前からメダルを狙うと公言してきたけれど、正直なところその確率は5%ぐらいと思っていた。アスリートとして1%でも可能性があれば狙っていかなければいけないという思いもありましたが、強がりと純粋なアスリートの気持ちが五分五分だった。ただ、大会の組み合わせが決まった時、それがさらに2~3%まで下がったように思えた」(太田)