長野五輪ラージヒル団体の金。
最強チームゆえに生まれた悲喜こもごも
無料会員限定記事
平成スポーツ名場面PLAYBACK~マイ・ベストシーン
【1998年2月 長野オリンピック ラージヒル団体】
歓喜、驚愕、落胆、失意、怒号、狂乱、感動......。いいことも悪いことも、さまざまな出来事があった平成のスポーツシーン。現場で取材をしたライター、ジャーナリストが、いまも強烈に印象に残っている名場面を振り返る――。
1998年の長野五輪スキージャンプ・ラージヒル団体で、日本は"4年越し"の金メダルを獲得した。そのメダルには、1994年のリレハンメル五輪(ノルウェー)で優勝を逃した者たちのさまざまな思いが詰まっていた。
金メダルが確定し、船木和喜(右)に駆け寄る原田雅彦(左) リレハンメル五輪を控えた1993-1994シーズンのW杯は、イエンス・バイスフロク(ドイツ)、アンドレアス・ゴールドベルガー(オーストリア)、エスペン・ブレーデセン(ノルウェー)が"3強"で、日本勢は葛西紀明の1勝のみ。しかし、岡部孝信と西方仁也も表彰台に登り、原田雅彦は4位が最高だったものの何度も上位に入るなど総合力は高かった。
さらに、リレハンメル五輪のラージヒルでは、岡部の4位が最高でメダルは逃したが、西方が8位、原田が13位、葛西が14位と安定。ラージヒル団体でも日本が優勝候補の筆頭であったことは間違いない。
西方、岡部、葛西、原田の順で臨んだ団体戦で、日本はその期待を裏切らない戦いを見せる。1本目の終了時点では、ドイツ4人目のジャンパーであるバイスフロクに逆転されて0.8点差の2位。しかし2本目に入ると、西方と岡部が130m超えのジャンプを連発してドイツを逆転し、66.5点差をつけた。
次の葛西で少し差を詰められ、バイスフロクが1本目を上回る135.5mの大ジャンプを見せたものの、最後の原田は105mを飛べば確実に優勝できただろう。だが、踏み切りのタイミングが早すぎた原田は失速し、着地したのはK点のはるか手前の97.5m。掴みかけた金メダルが手からこぼれ落ち、メダルの色は銀色になった。
その悪夢から4年。長野五輪シーズンの日本人選手は強かった。
リレハンメル組の西方は代表から外れていたが、五輪前までにW杯を4勝した原田と、船木和喜が絶好調だった。特に、1994-1995シーズン開幕の直前に鎖骨を骨折した葛西の代わりにW杯に出場し、初出場・初優勝を果たして世界のトップジャンパーに仲間入りした船木は、五輪シーズンの年末から年始にかけてのスキージャンプ週間で3勝を挙げ、日本人初の総合優勝を果たしていた。
1 / 3