【ソチ・パラリンピック】メダルラッシュ。
ベテラン森井大輝が与えた日本チームへの影響 (2ページ目)
パラリンピックアスリート森井大輝の原点は、1998年の長野パラリンピックにある。大会の様子を、森井大輝は病院のベッドで見ていた。前年の春、バイクで転倒して脊髄を損傷。突然、思いどおりに動かなくなった自らの肉体を嘆き、希望を失っていた。しかし、テレビに映るパラリンピック選手たちは皆、自由自在にスキーを操り、ゴールではとびきりの笑顔を見せている。自分と同じ障害者なのに、なぜあんなに笑えるのだろう。自分も同じように笑いたい。自然に沸き起こったその感情が、失意の森井を雪の上へと導き出した。
チェアスキー(専用のいすに1本のスキーを取り付けた特製スキー)に乗り始めた森井は、幼い頃から発揮していた運動能力を生かし、瞬(またた)く間に国内のトップ選手へと上り詰めていく。だが、自信を持って臨んだ2002年のソルトレイク・パラリンピックで、世界の壁の高さを思い知らされる。回転6位、大回転8位で、初出場にしては健闘したと周囲には言われたが、森井自身は惨敗と受け止めた。そしてこのときから、彼はそれまでの自分自身をすべて変え、アスリートとしての道を究める覚悟を決めた。
まず取り組んだのが、肉体改造だった。海外勢に「ヘイ、ガール!」とからかわれるような華奢な肉体では、スピードや急斜面に耐えて正確なスキー操作をすることなどできない。そのことを痛感した森井は、トレーナーとともに本格的なトレーニングに取り組むようになった。もともと、何かを始めたら徹底的にやらないと気がすまないタイプ。自分の身体が変わっていくおもしろさに夢中になり、いつしか彼の上半身は筋肉のかたまりへと変貌した。
用具、そして滑りのテクニックの研究にも人一倍の情熱を注いだ。サスペンションのセッティング、身体にフィットさせるためのシートやポジションの調整は、深夜にまで及ぶことも珍しくなかった。そうして作り上げたマシンと一体になって滑る森井の先鋭的なテクニックは、徐々に世界各国からマークされるようになっていった。
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