五輪の最終選考で採点ミスの悲劇...織田信成は喜び一転、泣き崩れた 大舞台までの波乱万丈な道のり (3ページ目)
【殻から抜け出す契機は4回転成功】
それでも、ニコライ・モロゾフ氏をコーチに招へいした2008−2009シーズンは再び輝いた。2008年9月と10月の国際大会で連勝したあと、GPシリーズ復帰戦となったNHK杯では、フリーは4回転トーループを入れた構成に挑み、2位のジョニー・ウィアー(アメリカ)に12点弱の差をつけて優勝。
エースの高橋がケガで全休のシーズンになったなかで、全日本選手権でも2位の小塚崇彦に15点弱の差をつけて優勝。連勝を続けた。
そして2010年バンクーバー五輪の出場枠獲得がかかった重要な世界選手権では、SPでは「リラックスしていて演技ができるかなと思ったが、逆にスピードがつきすぎて失敗してしまった」と本人が話したように、3回転ルッツ+3回転トーループで着氷後にフェンスにぶつかって転倒するアクシデント。76.49点で7位発進と苦しい状況に追い込まれた。
フリーも冒頭の4回転トーループ+3回転トーループを初めて決めたが、次のトリプルアクセルはオーバーターンになってとっさに3本目のサルコウに3回転トーループをつけてしまった。後半の単発のトリプルアクセルは2本目で連続ジャンプ扱いになったため、その後の3回転フリップ+2回転トーループ+2回転ループが4本目のコンビネーションジャンプになって0点になるミスをした。
それでも総合7位を堅持して、6位の小塚とともにギリギリで五輪出場3枠を獲得と、高橋不在の穴を埋めた。
3枠獲得に安堵しながらも織田は、「ジャンプの本数制限に引っかかるのは3回目なので、学習能力がないというか......。今後への反省点だと思います」と自省。初の4回転ジャンプ成功についてはこう話した。
「今季は4回転にずっと集中してやってきたので、最後の世界選手権でできたのがうれしくて涙が出てしまいました。五輪の枠がかかった大会で挑戦しようかどうか迷ったけれどコーチから言われた言葉を信じて、自信を持って跳べたのは大きな成果だと思います。ただ技術は上がったが、上位の選手たちを見ると表現がすごかったので、自分ももっと表現できるようにしていきたいです」
前季は大会に出場できなかったことをあらためて振り返り、「自分にはスケートが一番だなと実感した」と話した織田。順位こそ納得できなかったものの、殻から抜け出すひとつのきっかけになった。そして戦いはバンクーバー五輪へと続いていった。
<プロフィール>
織田信成 おだ・のぶなり/1987年、大阪府生まれ。2005年、世界ジュニア選手権で優勝すると、シニアデビュー後は全日本選手権やNHK杯、四大陸選手権など数々の大会で優勝。2010年バンクーバー五輪は7位入賞。2013年に現役引退するも、2022年に復帰を表明し、2024年全日本選手権で4位入賞を果たした。2025年に再び引退。現在はプロフィギュアスケーターとしてアイスショーなどで活躍する。関西大学大学院文学研究科総合人文学専攻身体文化専修修士課程修了。4児の父。
著者プロフィール
折山淑美 (おりやま・としみ)
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。
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