五輪の最終選考で採点ミスの悲劇...織田信成は喜び一転、泣き崩れた 大舞台までの波乱万丈な道のり (2ページ目)
【好調の最中、不祥事で離脱】
それでも全日本で高橋と僅差だったことを評価され、四大陸選手権とともに世界選手権の代表に選出された。
そして四大陸選手権で優勝して臨んだシニア初の大舞台の世界選手権は、予選B組1位発進のあとSPはノーミスで自己ベストの78.25点で3位につけると、フリーはジャンプのミスもあって順位を下げたが、総合4位。翌年の世界選手権出場2枠を獲得し、日本男子躍進への足掛かりを作った。
初出場の世界選手権4位でつけた自信は、翌2006−2007シーズンで発揮された。GPシリーズのスケートアメリカでは、エヴァン・ライサチェク(アメリカ)を破って優勝すると、次のNHK杯ではSP、フリーともノーミスの演技で自己ベストの244.56点を出し、高橋に次ぐ2位に。GPファイナルもブライアン・ジュベール(フランス)と高橋に次ぐ3位になった。
全日本選手権2位を経て臨んだ2回目の世界選手権は、SPで冒頭のトリプルアクセルが半回転になるミスがあり14位と出遅れたが、フリーで巻き返して総合7位に。2位の高橋とともに翌2008年の世界選手権の出場枠を、最大の3枠にした。
だが、勢いが続かないのも織田らしいところだった。2007年夏にはミニバイクの酒気帯び運転で警察に摘発され、日本スケート連盟から大会への出場停止処分を受けた。同年12月の全日本選手権は出場を予定していたが、直前に欠場を発表。2007−2008シーズンは全休することになってしまった。
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