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高橋大輔の日本男子初五輪メダルまでの過酷な日々 一か八かで手術、厳しいリハビリ、一時引きこもり...... (3ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

【大ケガを負い過酷なリハビリ生活】

 しかし、シーズンが終わると不運に見舞われた。モロゾフコーチがライバルの織田ともコーチ契約をしたため、3年間続けてきた師弟関係を解消。さらに2008年10月末の練習中にジャンプの着地で右膝を痛めた。精密検査の結果は前十字靱帯と半月板の損傷だった。

 過去のフィギュアスケート選手で、そのケガから復活した選手はいないとも聞いた。だが高橋はスポーツ医学の進化を信じて手術を決断する。「どうせやるなら世界の頂点を目指したい。それなら一か八かで勝負をすべきだ」(高橋)と考えたからだ。

 2008年11月に手術をしてその2日後から復帰を目指すリハビリの日々が始まった。だが動かなくなった筋肉を奥のほうからほぐして動かせるようにする治療は、鋭い痛みを伴うものだ。1日8〜9時間のリハビリが毎日続き、悲鳴を上げたのは気持ちのほうだった。

 年が開けた2009年2月のある時、気持ちがスッと切れてしまい、病院へ行くのをやめるとそれから1週間ほどは外部との連絡をいっさい絶って引きこもった。ある時は目的もなくフラッと新幹線に乗り、適当な駅で下車して時間をつぶしたこともあったと、高橋はのちに苦笑しながら振り返っている。

 長光コーチは連絡さえ取れなかった高橋が久しぶりに自分の家に来た時、「もうこれ以上あの子を追いつめるのはかわいそうだ。自分が周りの関係者に謝るだけ謝って、彼をもうスケートから解放させてあげよう」とまで思ったという。

 そんな葛藤のなかでも気持ちを取り戻した高橋は、再び厳しいリハビリ生活に戻ると4月4日には氷上練習ができるまでに回復し、6月からはジャンプも跳び始めた。

 だが、問題も出てきた。リハビリ期間中に故障の一因になった足首や股関節の硬さの解消にも手をつけ、下半身の可動域が広がりステップやスピンでは大きな動きができるようになった一方で、ジャンプの感覚が狂ってしまった。

 1年半ぶりの復帰戦だった2009年フィンランディア杯は優勝したが、GPシリーズのNHK杯のフリーでは4回転トーループだけではなく後半の3回転ジャンプでも転倒するミスが出て4位に。次のスケートカナダ2位で進出したGPファイナルでも、フリーはジャンプの失敗に加え、スピンが2本0点になるミスで5位と安定しなかった。

 それでも五輪代表選考会も兼ねた3週間後の全日本選手権は、261.13点で完全優勝。2回目の五輪代表を決めると、高橋は「全日本の優勝はうれしいけれど、まだちゃんと自分の演技ができるまでにはなっていません。堂々と五輪に行けるような演技ではないので、ここで喜んでいてはダメ」と気持ちを引き締めていた。

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