小説『アイスリンクの導き』第5話 「実家での夕飯」 (3ページ目)
32歳で現役に復帰する、という自分がおかしく思えてきた。なぜ、そこまで競技にこだわるのか。多くの戦友たちが競技人生を終え、他の道に進もうとしている。自分は今も昔と同じように、スケートを滑ることだけに没頭したいだけだが、子どものままだ。
それでも、翔平は後戻りする気はなかった。今、自分が感じている不安は、ポジティブなものだと捉えていた。緊張がなかったら、最高の演技はできない。
12歳の時、初めて行った野岳山合宿もそうだった。スケート連盟の関係者が見守っていて、すごく緊張していたはずなのに、しばらくすると一緒に滑っている選手のレベルも高くて負けそうになりながら、そんな技もできるんだって力が湧いてきた。
「野岳山マジック」
そう呼ばれるお馴染みの現象だったという。いつもどおり、重ねてきた練習の成果が出た。加速しながら右足を振り上げ、同時に足と腕をたたみ、高速回転をかけ、いつも以上のアクセルが跳べたのだ。
「生まれ変わった気持ちで、新鮮な気持ちでスケートを楽しみたい」
テレビのインタビューで翔平は言ったが、フィギュアを始めた頃の感覚を取り戻していた。これができない、こんなことができるのか、その発見だ。
「お風呂は私が一番先だから」
妹がそう言って、飲み干したコーヒーカップを片付けだした。
父は酔いが回ったらしく、食卓から移動してソファに座った後は居眠りをしていた。母はすでに食事を終えて、キッチンで洗い物をしているようだった。変わらぬ風景に愛おしさを覚える。
「なんか手伝おうか?」
流しに立った母に向かって、翔平は声を掛けた。
「一人でやった方が早いからいい」
母は素っ気なく言う。
「お兄ちゃんは、スケート以外はなんもできんじゃろ」
妹が生意気な口を利く。
「早く、お風呂入れ。先に入ってまうぞ」
「駄目じゃ」
妹はそう言って、バスルームへ駈け込んで行った。
母は鼻歌を歌いながら、流しをきれいに拭いていた。父は小さくいびきをかき始めた。少しだけ開いたカーテンから、丸く輝く月が見えた。
著者プロフィール
小宮良之 (こみやよしゆき)
スポーツライター。1972年生まれ、横浜出身。大学卒業後にバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。パリ五輪ではバレーボールを中心に取材。
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