小説『アイスリンクの導き』第5話 「実家での夕飯」 (2ページ目)

 バレエでは新しい動きをすぐに習得し、その精度を上げていく。その追い立てられる感じも、自分は嫌いではなかった。やはり、母の言うとおり、そういう性分なのだ。
 
 点における濃密さはフィギュア以上で、フィギュアに生かせるかもしれない、と思う自分がいた。すでに現役を引退していたのに、フィギュア競技者としての習慣を捨てられていなかった。
 
「パン、うまいじゃろ?」

 父がビールを片手に得意げに訊いてきた。

「うん、おいしい」

 明日から炭水化物を抜かないと、と優しさに水を差すようなことは言えない。

 個人的にはバゲットをちぎってアヒージョに浸して食べるのが好きだ。味がこもったオリーブオイルとパンがよく合う。食べすぎると太るので、サラダやシチューとまんべんなく食べる。

「お兄ちゃん、パンとかバクバク食べてええの?」

 妹の桃が余計なことを言う。
 
 6歳下で、関西の大学を卒業後は地元に戻って就職するはずだったが、「とりあえず、お父さんのパン屋、継ぐ」と宣言し、父の店で見習いをしている。父は「とりあえず、なんて、パン屋をどんなもんだと思っとんかの」と怒りながら、うれしそうでもある。
 
 翔平にとっても、パン屋の跡継ぎ問題は気になっていたので、ありがたい気もした。
 
「もう少し、外側をカリカリにした方がおいしいと思うんじゃが」

 妹がバゲットにかじりつきながら、偉そうに言う。

「中をふっくらさせようとすると、それが難しいのもわからんのか。ちいと勉強せい」

「でも、改善する姿勢が大事なのではないですか、師匠?」

 妹がふざけた口調で言う。

「知ったような口を」

 父が怒ったように答える。これぞ、パン屋の会話だ。

 デザートは一口サイズのメロンパン。これも、翔平の好物だった。母がキッチンで入れたコーヒーと合わせる。一風変わった実家の風景だろう。

「今回はどんな衣装?」

 立ったり座ったりしていた母は、ようやく落ち着いてテーブルについて、グラタンを小皿に取りながら訊いてきた。

「ショートは、黒っぽいシャツに赤やゴールドの刺?が入った衣装。タンゴはブラックとレッドってイメージだし。まだデザイン段階だけど、かっこいい感じになっているよ」

「下は?」

「黒いパンツだよ。シンプルに」

「翔平は光るラインストーンや羽根とかの飾りは、あまりつけたがらないものね。落ちると怖い、減点になるって」

「よく覚えているね。まあ、着たことはあるけど」

「フリーは?」

 母が訊く。

「上下ともに黒だよ」

「翔平はほんま、黒っぽいの好きね」

「黒一色と言っても、いろんな黒があって。襟が少し立つ感じでデザインを工夫してもらっているし、立体的に映る黒い衣装でかなりスタイリッシュだよ」

 翔平は母に説明した。

「フリルのひらひらはつけないの?」

 妹がからかってきたが、翔平は無視した。

「早く衣装を着て滑っているところが見たいわ」

 母が言った。

「もうすぐだよ。8月には間に合わなそうだけど、10月には。それまでは昔着ていた衣装を使うつもり」

 体形は変わっていなかったので、サイズは問題ない。

「調整はうまく行っとるの?」

 仲間に入りたそうな妹が、自分で入れたドリップコーヒーを飲みながら言った。

「まあまあ」

 翔平がやや面倒くさくなって答える。

「何なん、その答え。人がまじめに訊いとるのに」

 妹がプンプンと怒った。

 不安だったおろしたてのスケート靴は、使っているうちに革が馴染んできていた。同じメーカーでも、それぞれのスケート靴で微妙に相性は違うもので、これは自分の中では朗報だった。シーズンを通して戦える準備が整ってきていた。
 
「お前に言ったって、なんもわからんじゃろ」

「むかつく、もう知らん」

 妹は興味なさそうにスマホを取り出し、友達に兄の言動を愚痴っているのかもしれない。もしかすると、彼氏でもできたのか。小さかった妹の姿を思い出しながら、時の流れを考えた。

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